戦国質問箱 | |
10.戦争芸術家・上杉謙信の原動力 | |
上杉謙信といえば、武田信玄、北条氏康という当時最強と言われた大々名を同時に相手して1歩もヒケを取りませんでした。ヒケを取るどころか、信玄には八幡原で二ヵ所傷を負わせ、氏康には11万3000もの大軍(諸説あり)で小田原城に閉じ込めているほどです。また、この後には織田の北陸侵攻軍を手取川で叩き潰しています。 このように、謙信は生涯で大変の数の戦争をしました。謙信より数多く戦っている武将は数多くいるものの、これほどまでに大遠征をそれも大規模な軍隊で繰り返している武将はそうはいません。それこそ天下人クラスの暴れぶりという事になります。 謙信にとっての戦争はある種芸術的なものがあるので、戦争芸術家と呼ばれることがあるようです。その謙信、なぜこれほどまでに軍を頻繁に繰り出す力があったのでしょうか。 謙信の住んでいた越後は、今でこそ日本有数の穀倉地帯で大変な収穫量があるわけですが、当時は米の品種改良も進んでいませんし、現在同様大雪にも悩まされつづけた地域である訳です。 具体的には越後の当時の推定石高が39万石。武田信玄の山に囲まれた小国・甲斐で22万石、信濃は40万石と比較して見ても、越後平野の米の収穫量は大した事がなかったことが分かります。 では、なぜ謙信はこれだけの軍事力を動員する力が持てたのか。 謙信は米に頼らず、お金で稼いでいたのです。 まず、越後には当時でも有数の港町・直江津がありました。ここで、北国船(ほっこくぶね)と呼ばれる商船で越後原産の青苧(あおそ)や米を取り引きしていたのです。青苧(あおそ)は越後特産の苧(からむし)という植物の皮を細く裂いたもので、越後上布と呼ばれる麻布の原材料です。当時は木綿が普及してなかったので、麻布が生活必需品だったのです。ですから、これによる収益はバカにできないものがありました。 謙信はこれらを取り扱う商人をうまく管理し、そこから収入を得ていました。また、商人達の交流が盛んになるよう、街の区画整理などにも気を遣いました。 しかし、やはり謙信の収入源といって欠かせないのは金山・銀山からの収入です。 謙信は大きく二つに分類される金山群を支配していました。ひとつは越後黄金(こがね)山、もうひとつは佐渡黄金山といわれる鉱山群です。 佐渡黄金山に分類される佐渡の金山、銀山には、鶴子(つるし)銀山、新穂銀山が以前よりありました。鶴子銀山の方は「鶴子千軒」と呼ばれる鉱山街まで出現し隆盛していました。謙信治世の1556年には西三川砂金山の開発が進み、ここから一日黄金18枚が上納されたといいます。 しかし、当時は佐渡よりも越後本土の金山開発の方が進んでいました。 それが越後黄金山の鉱山群で、これから紹介する上田銀山と高根金山を総称したものです。上田銀山は謙信の収入金銀山の中でも最も有名なもので、会津との国境沿いに位置しています。この銀山の成り立ちは古く、永禄7年以降謙信の支配下に置かれました。 そして、もうひとつの高根金山が謙信にとって最大の収入源です。何しろこの高根金山、当時天下第一の金産出量を記録しています。この金山は謙信の後景勝の時代でも隆盛を誇りました。 上杉家の金山銀山の黄金産出量は、「伏見蔵納目録」によると越後黄金山から1124枚、佐渡黄金山から799枚産出されており(ただしこのデータは景勝時代の1598年のもの)、この2つを合わせると全国の産出量のおよそ6割を占めていたといいます。 これらの金収入源があった謙信だからこそ、米に依存しない経済体制をつくりあげる事が可能で、そしてあれだけ多くの合戦をしても国力が疲弊しなかったのです。 これらの収入が大きかったので、謙信は領民への税もかなり安かったそうです。そのため、景勝が会津に転封となったとき、領民がわざわざ会津までついて行こうとする者があとを絶ちませんでした。そして、関ヶ原の合戦の時、その頃越後を統治していた堀家に対して、景勝の越後復帰を願う反乱が頻発したわけです。まあ、もちろん裏では景勝が手を引いていたんですけど。 こういう面から見て、謙信の政治力はかなりのものであったと評価して良いと思うのですがね。 |