上杉家の財政について
黒田和泉守さんと、ながおっぽさんから上杉家の財政についてのレポートを頂きましたので、掲載させて頂きます。
なお、掲示板に書き込んでいただいた文を、ほぼそのままの形でこちらに転載したものです。
慶長三年の検地高での越後、越中、能登の石高ですが、
それぞれ、39万石、38万石、21万石になります。
越後の石高が飛躍的に高まったのは、蒲原平野が干拓された
戦後のことのようです。当時は湿地が多く、蒲原付近の農民は
山すそに住んでいて、越後の米穀収入はそれほどでもなかったようです。
加賀北部、北信濃、東上野をいれると120万石くらいになるようです(ただし、この石高は謙信没後の慶長年間に測定された記録で、この当時より開発の進んでいなかった謙信時代の石高はこれを下回ると思われる)。
なぜあれだけの軍事行動が興せたのかというというと、
鉱山収入、海運事業などになるようですが、謙信時代の
鉱山収入はおもに、上田銀山、高根金山のようですね。
謙信は佐渡を分国にしてないので、西三川金山、鶴子金山の金が
直接、春日山の金蔵にはいったかどうかは記録に残ってないようです。これは「伏見蔵納目録」に記載があるそうです。
「伏見蔵納目録」によると、越後黄金山、佐渡黄金山の金の
産出量が最大だったのは慶長三年(1598年)で、その時は
全国の金の産出量の六割にもなったようです。おしむらくは
謙信の時代でないことですが。
(以上、情報提供 黒田和泉守様)
たしかに謙信の領国の石高は低かったんですよ。しかも、
なぜか謙信はあまり農村の支配に対して力を入れた様子が
ないために、実際石高を多くするための政策はあまりたてて
いなかったとみるのが今のところの見解らしいです。
ということで、謙信は都市支配と流通支配に力を入れました。
その証拠に謙信は都市の直轄支配化を目的とした多くの都市法
を発布しています。
また、謙信の北陸支配はその延長上にあり、つけくわえて多くの
港湾都市を掌握し、海運の収益政策に謙信が大いに力を入れていた
のではないかといわれています。
実際ここからどれくらいの収益があったかは書いてなかったの
ですが、先代には赤字財政だったのが謙信一代で豊かになった
事実をみると、謙信が「安定した収入」を得るために打ち立てた
政策がうまくいっていたと考えていいと思います。
(以上、情報提供 ながおっぽ様)