戦国質問箱 | |
1上杉謙信は男装の麗人!? |
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上杉謙信といえば戦国最強武将でありますが、そんな謙信には女性説というものがあります。この説は、1970年ごろ歴史ファンの間でちょっとしたブームになったそうです。僕はその時まだこの世にいないので詳しくは知りませんが。 さて、謙信女性説の第一人者と言ってよかろう八切止夫氏の著書を読んで、謙信女性説の根拠を片っ端からかき集めました(八切氏以外の意見もある)。僕も含めてこの説に対する賛否両論はあるでしょうが、正直僕もどちらかまったく分からなくなってしまったので、この際ここに女性説の主な根拠を並べることにして、果たして男か女かは皆さんの判断に委ねたいと思います。 はじめに認識しておいて頂きたいことは、当時の女性は決して皆さんがイメージしているであろう繊細で従順な女性ではないということです。特に戦乱の世となればなるほど女性もそれに合わせて逞しくなっているという事を念頭においてください。 以下、謙信女性説賛成派の主張を並べます。注意してほしいのですが、これは僕の意見ではないです。だから、お前はアホか!こんな事あるか!なんてツッコミを入れられても困るのでやめてください。だからと言って八切さんにも問い合わせないように。迷惑ですから。 だからって、繰り返しますが別に八切さんの意見ばかりではないですよ。僕がここに書くにあたって、もともとと意味がズレた物もあるかもしれません。あくまでも本を読んでそれから解釈した内容を僕なりの言葉でまとめたわけなので。 あくまでも、参考意見という事で、ひとつご理解頂きたいです。 信じない人はふーんと聞き流すのがベストです。ただ、こういう考え方もあるんだなあ、と思って頂きたい。
◆謙信の死因は脳卒中でなく大虫である。 伊勢亀山城主・松平忠明が永禄から慶長時代に渡りつけていた日記がある。明治時代に入ってから、今までの歴史は徳川300年の間に徳川家の都合で滅茶苦茶になっているから、新しく正しい日本史を編纂しようと「史学会」というものができた。 そこで、虫食いだらけの写本ではあるが、これこそ戦国時代の確定史料であると、明治44年に「当代記」の名で史籍雑纂第2巻に収録された。 この「当代記」、わずか千部ばかりの非売品なので、歴史家でも知らない人が多いらしい。 その「当代記」など、古い文献には「越後景虎大虫にて卒す。」と書かれている。脳溢血とは書いていない。写真も掲載されているので間違いない。 大虫とは今では死語だが、「明解古語辞典」で婦人病とあるそうだ。小虫は「かんや、ひきつけ」、大虫は「婦人の血の道しゃくを起こすもの。」としている。現に福井県には官幣小社で女神を祭る婦人病の神様大虫神社というものがあるらしい。 よって、大虫は女性しかかからず、男性ではかからない(当然だが)。 つまり第一級の歴史史料で「越後の長尾景虎は婦人病で死んだ。」と堂々と書いてあるのだ。 大虫で死んだでは格好がつかぬと脳卒中にするならともかく、脳卒中で死んだ人をわざわざ大虫にするとは考えられないので、大虫が本当の死因である可能性の方がはるかに高い。まして、第一級史料に書かれているのだから、まず間違いないだろう。 が、江戸末期から流行した頼山陽の詩吟によって、「謙信は男だ」とみんな思いこんでいたから、明治44年になってから、今さら「謙信は本当は女だった」と証明して見せてもすでに手遅れだったのだ。 ※大虫を脳卒中だと見るか、婦人病ととるかで意見が分かれる。 ◆毎月10日前後に腹痛をおこし合戦を取りやめている。(その日に戦ったのは1度だけ?) 謙信は、よく戦争を行ない遠征先に長期滞在した事もしばしばである。 しかしその謙信、毎月10日前後になるとぷっつり合戦を止めてしまう。「○月10日、謙信公腹痛をおこし…」と、10日前後になると謙信は原因不明の腹痛に悩まされ、出陣を見合わせている。 一度だけ戦ったのは、かの有名な川中島合戦。しかし、あれも信玄が動いたから動かざるを得なかったのだ。 当時の暦は毎月同じ日数であり毎月同じ時期に例のモノが来る事になる。 関東出征の時、北条軍が攻めてきて危機一髪という時にも、腹痛と称して6月11日厩橋城に引きこもり、十日ほど討って出ず、城内で成田長康から人質に来ている幼児のお守りをしていた、という話が「松平記」にある。 謙信が大虫で倒れたとするならば、春日山城の厠で謙信が倒れたのは3月9日(11日?)、そして13日に他界しているので、タイミングもしっかり合うのである。また、謙信は関東への出陣予定を15日としていた。つまり生理の影響がなくなる頃で、これまたつじつまが合う。(あんまりこういう話はしたくないんだけど…。) この後図書室を調べた結果、女性説本以外で謙信の死因が腹痛と書かれた本も発見した。 ◆謙信の武勇を称えた当時の唄で謙信は女性扱いである。 古文献にこんな瞽女(ごぜ)唄の一節が記されていたそうだ。 「白虫赤虫一二匹、まんじ巴とくるうなか、とらどしとらずきとらの日に、うまれたまいしまんとらさまは、城山さまのおんために赤やりたててご出陣。男もおよばぬ大力無双。」 キーワードは太字で記した「まんとらさま」である。 話は少し変わるが、源頼朝の妻北条政子は「大政所(おおまんどころ)」と呼ばれた。つまり、「政」の字は“まさ”がなまって“まん”になるのである。 そして、謙信は関東管領に就いた時、上杉憲政の一字をもらって上杉政虎と改名している。 つまり上の唄に合わせると「まんとらさま」は「政虎様」になるのだ。 さらに最後に「男も及ばぬ」というのだから男性であってはおかしい。すなわち「政虎様は男性ではない」=「上杉謙信は女性」となるのである。 ◆スペイン国王フェリペ2世宛ての日本についての報告書で謙信は女性と書かれている。 外国では上杉謙信は女性となっている…と言うとおそらく皆さんは「何で外国?」と首を傾げるのだろう。しかしこれは事実である。 当時世界の最先端を走っていたのは、無敵艦隊を誇ったスペインである。そして、スペイン国王フェリペ2世は日本に人材を黄金探しに派遣していた。 その中の一人、ゴンザレスという人物がフェリペ2世に宛てた報告書に謙信の事が書いてあるのだ。 報告書には、会津の上杉景勝がおびただしい黄金を隠し持っているニュースが書かれているのだが、「彼のTiaがサドとよぶ土地を開発して得たものを、ひそかに運んだのだといわれる」とある。 謙信が男ならば景勝の伯父だから、Tioと表記されなければならない。Tiaでは伯母となり女性になってしまうのだ。この記事は写真付きで載っていたので間違いなかろう。 つまり、スペイン国王フェリペ2世には「会津の上杉景勝が伯母の上杉謙信が開発した佐渡の黄金を運び隠し持っている。」と報告されているのである。 ◆謙信が使用していた面頬ヒゲ付きの鎧の殆どは戦国から江戸にかけて女性の嫁入り道具として流行していた。 詳しくは知らないがそういう事らしい。 ◆謙信がわざわざ似顔絵書きに自分の顔を描かせず、女性の隠し言葉を表す盃の絵を描かせたこと。 当時は写真もなくデスマスクも普及していなかったから、身分のある者は「後影」すなわち肖像画を描かせている。武田信玄は不動明王になぞらえて自分の絵姿に紅蓮の炎を背負わせている。とすると、謙信なら対抗上毘沙門天に自分の姿をなぞらえて鎧姿を描かせなければならない。 しかし謙信は、当人の顔も姿も描かせていない。 「独鈷(どっこ)」という、密教で煩悩を打ち砕くために用いる両端のとがった鉄棒が、白い雲に乗って、その下に赤い大きな木盃が1個描かれているきりのものである。 つまり、謙信はわざわざ似顔絵描きを呼び寄せておきながら自分の姿を描かせなかったのである。 さらに謙信が描かせた木盃であるが、「古語拾遺抄」によるとこの時代徳利や瓶子は男性、杯や盃は女性の隠し言葉とされていた。 わざわざ似顔絵描きを呼び寄せておきながら、自分の顔を描かせずただ盃を描かせたというのは何の謎か。哀れ悲しい話だと八切氏は言うのである。 ◆たかだか5尺2寸の身長なのに大柄と言われる。 上杉謙信には小柄だったという説と大柄だったという説がある。 海音寺潮五郎氏の「天と地と」や南條範夫氏の「上杉謙信」などなどでは謙信は小柄とされているし、津本陽氏の「武神の階」では大柄と書かれている。 なぜ同じ人物でこうも違いが出るのか。 まず分かっている事は謙信の身長は5尺2寸、すなわち約156センチという事、さらに古い書物で景虎は大柄と書かれている事である。 おそらく海音寺氏らは「5尺2寸」、津本氏らは「大柄」に着目したのであろう。 当時は確かに現在より平均身長は低い。しかし、だからといってたかだか156センチ程度で大柄と言われるだろうか。もし、そうなら柿崎景家などは化け物になってしまう。 この謎は女性説を用いればあっさり解く事が出来る。確かに「大柄」とは書かれているものの「大男」とは書かれていないのだ。つまり、謙信は女性であった、とすれば156センチでも充分「大柄」になるわけである。 ◆子孫が転封になった時わざわざ謙信の遺骸を転封先に運んでいる。 上杉家が会津に転封、つまり引っ越した時、さらに関ヶ原の後家康によって米沢に減封させられた時、いずれもわざわざ謙信の遺骸の入った壷を墓から掘り起こし、転封先に持っていっている。 いくら謙信が名君だったとはいえ、これほどまでに子孫が先祖に執着するのは他に例がない。それに、それほど尊敬しているのなら、かえって墓をあばいて運ぶなどとても考えられない。 と、すると見られては困る何かがあったのだ、と八切氏は主張している。 ◆謙信のヒゲ面の肖像画はいずれも謙信の死後、想像して描かれたものである。 謙信女性説の否定に使われるのが、謙信のヒゲの生えた肖像画である。しかし、これはいずれも後世の画家が謙信を想像して描いた物、あるいは謙信の子孫が命じて描かせたものである。下で説明するのでここで詳しくは書かないが、江戸時代上杉家を守るため謙信を男性化する必要があった。そのため、あえて無精髭の謙信を描かせたとするのである。 ◆筆跡が女性的。謙信の漢詩は頼山陽の創作。明らかに謙信が書いたとされる作品は和歌。 謙信の筆跡を写真か何かで見た方は、きっと驚かれるのではないだろうか。特に信玄の筆跡と比べて見ると、謙信の筆跡は実に繊細で、信玄の力強い字と比べ実にしなやかな感じを受ける。 筆跡だけでは説得力に欠けるので他も紹介する。 謙信は、源氏物語のような恋物語をけっこう読んでいる。確かに教養書ではあるが、戦国武将が読むには不自然である、今川義元ならともかく。まして、一般イメージの謙信で考えると、喩えるなら、中日の星野監督が少女マンガを読んでいるようなものだ(笑)。 謙信は上京した時に、時の関白近衛前嗣に和歌懐紙と“三智抄”という和歌集を所望している。 これに驚いた前嗣が「越後の田舎大名が歌道をたしなむとは稀有なこと。“三智抄”は見つからぬが、懐紙はすぐに届けて、歌会を催したところ、非常に風情のある雅歌(恋歌)をよんだ。よって皆驚かされ…」とある。 また、謙信が書いた漢詩であるが、特に有名な能登七尾城を攻め落とした時書いたあの詩は頼山陽が後世付け足したものであるという。あきらかに謙信が作ったとされる作品は和歌であり、和歌は女性ならお手のものである。謙信は漢詩も出来ただろうが、一番の得意分野は和歌であった。一般の謙信のイメージにそぐわない気がする。 ◆松平記にも謙信の女性的描写がある。 松平記に謙信が死ぬときの描写が書かれているらしい。 「まこと、うるわしき御様子にて…なみいる諸臣みな喜悦の眉を開けり。」とある。うるわしき…「麗しき」は、ここで考えられる意味は二つ。「美しい」と「仰々しい、おごそか」である。一般的考えでは、謙信が麗しいとなれば、後者で考えるであろう。しかし、それでは家臣達が喜悦の眉を開いたのにつながらない。 八切氏は、おそらくこの時側にいた直江実綱の後家らが、謙信に死に化粧を施したのではないか、それを見て「おお、麗しの謙信様…。」となったとすればつじつまが合うと推測する。 それに常識的にかんがえても、いくら美しくても男性に麗人とは使わない。 彼は謙信が男性であったなら、看病をするのは小姓か、若い女中であるのが普通だろうに、なぜ50そこそこの女中らに看取らせたのか、とも言っているが、これは僕にはよく意味が分からん。 個人的意見としては、ここの「麗しき」は「元気な」という意味ではないだろうか。一時的に謙信が意識を持ち直したと思う。そして時世の句はこの時詠んだと思われる。これなら後ろの文とのつながりもおかしくはないだろうと思うのだが。 ◆他国主と会うときにその母嫁らとの交流が相手本人以上に深く、それに嫉妬された事もない。 謙信が例えば足利将軍家に拝謁しに行った時など、相手本人よりもその母親だったり、その妻だったりとの交流のほうが深かったという。 いくら友好的な相手とはいえ、他の男性が自分の妻と仲むつまじくずーっと話をしていたら、気が気じゃなくなるだろうし、焦り、妬み、嫉みといった感情も出てくるであろう。また、謙信が相手のそんな心情を解さない訳がないし、なにより相手に失礼であると思うはずである。 それなのに、相手はそれについて一切の文句もない(むしろ余計にもてなしているぐらいだ)し、謙信も平気な顔をしている。 つまり、不倫の危険がない人物=同じ女性であったという結論に結びつく。 ◆金持ちの国主が来訪したにも関わらず今日の官女らが誰も謙信に熱をあげなかった。 謙信は言うまでもなく多くの金山を所有する大金持ち大名である。ふつう、そんな大金持ちで、さらに一般に伝わっている威風堂々の颯爽たる謙信が上京したのであれば、今日の女官達が熱を上げないわけがない。そして、その様子はしっかり記録が残されるはずである。 しかし、謙信についてはただ京に来て天皇や将軍に拝謁した…程度の事しか書かれておらず、姿形がどうとかいう事は当時の女官達の残した記録「お湯殿うえの日記」に一切記録されていないのである。他の事なら、箸の上げ下ろしまで宮中の事は書かれているのに。 誰も謙信について触れようとしない…謙信に興味を持たなかったわけだ。 「ケチだったからもてなかったのだ」と主張する人もいたが、京の貴族や将軍家の人達がたくさんの引き出物を貰って大喜びしているのだから、謙信がケチだったはずがない。 と、すると女官にとって全く興味が沸いて来ない人物…つまり同性だったと八切氏は主張している。 ◆謙信の願文はあまりに感情的で女々しく男らしくない。 コレについては他で詳しく取り上げるが、謙信が納めた願文(神様に宛てた文章)は、例えば信玄なら「これこれに助力してくれればなになにする。」というような契約文であるが、謙信は「なになにゆえにどうこうします。力をお貸し下さい。」となる。 要するに自分の正当性を主張しているわけだが、その分の内容が「武田晴信悪行之事」に見られるように、感情的であって一般に知られている謙信の男らしさが見えないというのだ。 まるで、どこかの姫が自分の殿に讒言するようなやり方だというのだが、これを根拠とするには弱すぎるような気が…。 また、謙信が書かせた誓約書、「裏切りません」「戦のときはたとえ自分ただ一騎でもはせ参じます」…を見るに、「一騎でもいいから来てくれ。」というのは、男性にしては感情的かつ甘えがありすぎると言うのである。これも根拠にするには弱いか。でも、たしかに男性武将のイメージには合わない。 ◆江戸時代、上杉家を守るため謙信を男性化する必要があった。 江戸時代は、女城主というものは一切認めていなかった。つまり、跡取に男の子がいなかったら養子でもとらないとお家断絶の憂き目に遭う。事実、上杉家は子宝に恵まれず養子を貰っている。そのため吉良亭討ち入りに巻き込まれるのだが…。 上杉家は外様大名であったので、かなり江戸幕府の中では肩身が狭かった。歴史をさかのぼって謙信が女性だったという事をつつかれて、「お前の国は謙信の時点で男子が途絶えておるな。」などと屁理屈を付けられ家を取り潰されてはかなわんと、謙信を男性化するためわざとヒゲのはえた謙信の絵を描かせたとある。 ◆越後の白山神社のご神体だけ馬に乗った女性であり、その神社が春日山に向かい合っている。 白山神社のご神体は男女一組だが、越後のものだけ女性1体でそのかわり馬に乗っているという。なかでも寺泊にある白山神社のものは鎧まで着ているとか。 たくさんある白山神社の中でも板倉の白山堂の中にある女神像には上杉謙信の「毘」の旗をさしているらしい。そしてその板倉は、謙信の鉢形城(春日山城)のあった春日山に向かい合っているという。 「オレは毘沙門天だ」と自分を神格化した謙信の事だから、越後国人の士気を盛り上げるため、白山のご神体を和製ジャンヌ=ダルクの如く作り変えたのではないか。 ◆当時女城主はそんなに珍しくもなかった。 美濃岩村城は織田信長の伯母の尾張御前が城主だったが、あまりに信長に抗戦するので、捕虜にし、岐阜城へ連れてきて信長自ら打ち首にしたと「当代期」にあり、また、「伏見城普請割当帖」に「池田せん3万石」と女性大名は数多い。 その他にも立花闇千代、「天と地と」で謙信の乳母の代わりをする松江、本能寺の変の時の濃姫や、大阪の陣の淀君、「武神の階」に登場する武田軍が徳川の城を攻めたとき、秋山信友の妻にする条件で降伏させた女城主(これが尾張御前!?)など、女城主はよく出てくる。 だから、越後に上杉謙信という女城主がいたとしても、騒がれるほどの事でもないのだ。 ◆嫁にやられかけた? これは、本当かどうかは謎。八切氏が推測しているだけなので信憑性は疑問である。 謙信が虎千代だった頃(八切氏は虎千代ではなく阿虎と書く)、父・為景に寺に預けられた虎千代は出家を嫌がる。為景は「父の命にそむいて出家を嫌がるとは何事か!」と、加地家に養子に出そうとするが虎千代は承知せず、為景が怒って越後守護の上杉定実に訴え虎千代を勘当する…という事件が書かれている。 八切氏はこれは養子に出されかけたのではなく、嫁にやられかけたのではあるまいかと言うのだ。そうでないと、わずか7歳の子供の事で、越後守護のもとに為景が訴えに行くというのは大げさすぎるからである。 つまり、「オレは養子には行かん」でなく「オレは嫁には行かん」であるとするのだ。しかし、もしそうならどちらかと言えば向こうから断られたとする方が自然だろう。なぜならその当時の長尾家はいくらか落ちついていたとはいえ周囲敵だらけ。長尾の親戚になるのはかなり危険であったからだ。 ちなみに、大阪城に千姫が嫁にやられたのもは7歳でこのときの謙信も7歳。決して早すぎるというわけでもない。 ◆姉、仙洞院の初婚が遅すぎる。 当時の女性は大体15までには結婚している。しかし、仙洞院の初婚は28歳、当時の女性ではすでに人生の山を登り終えた頃となる。これは一般に嫁に行き遅れたものと考えられるが、八切氏は嫁に行けなかったのではなく行かなかったのだとしている。 仙洞院は謙信によって長尾政景の妻になる訳だが、彼女は嫁入りの世話をした相手の砦へ放火させるなどして、「おのれ、よくも追い出したな。」と謙信を恨んでいたという。その証拠に謙信の側近、本庄実仍が「たとえ御新造(仙洞院)が、ごく近いご親類とは申せ、許せない事である。」と出した文書が現存している。 行かず後家の仙洞院をわざわざ謙信が結婚の面倒を、それも大勢力の上田長尾氏を相手にまでしてくれたのに、感謝もせず逆に恨むというのはなぜか。謙信が弟であれば謙信が自動的に時期国主になるのは当然の話でそののち嫁に出されても恨むはずがない。謙信が妹で、自分が跡取になれるはず…と思っていたからこそ自分を追い出した謙信を恨んだのだというのである。 ◆遺品で残されている服装品が女性的 謙信は結構オシャレで、高級な服を着たりもしている。謙信赤く艶やかな服を好んだようである。中でも、上杉神社に納められている「紅地雪持柳繍襟辻ヶ花染胴服(くれないじゆきもちやなぎぬいものえりつじがはなぞめどうふく)」はとても男性用とは思えない。謙信には妻も娘も何もいないから、謙信本人が着ていたのも間違いないわけである。 もし男性でこれを着ていたら、今度は「謙信=かぶき者」という構図が生まれかねない(笑)。
ほかにも、やたらとヒステリーを起こす、母性本能が強い、おこそ頭巾(女性用)にあえて謙信頭巾という名が付けられた、敵兵が戦場で謙信に見とれたというエピソードがあるなどという意見もありましたが、根拠にするには弱すぎるので挙げませんでした。 僕の意見は卑怯にも中立であります。どっちか分からないというのもあるし、そもそも僕は謙信公の生き方そのもの、上杉謙信という人物が好きな訳であって、男か女かなんてのは僕にとっては取るに足らない問題だからです。 ←なんちゅうまとめ方だ(^^;)。 ※「もんちっち日記2000」1/18、1/21にもこの説についてのレポートがあります。 参考文献:「上杉謙信は男か女か」「上杉謙信は女人だった」「戦国川中島」(以上:八切止夫著)ほか (発行年は左から順に1968?、1972、1969年) |
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