戦国質問箱

8.景勝が一度だけ笑った理由。

 上杉景勝は、謙信の義兄・長尾政景と、謙信の姉・仙桃院との間に生まれた子です。謙信はこの景勝を大変可愛がり、景勝に習字の手ほどきをする為に、わざわざ時間を割いて自分で手本を書いてあげたほどといいます。

 謙信の死後、景勝は後に謙信の養子となる北条氏康の息子、北条氏秀こと上杉景虎と御館の乱と呼ばれる後継者争いに、直江兼続の助けもあって勝利し、謙信亡き後の上杉家を継ぎます。景勝はこの後豊臣秀吉の5大老にもなります。

 この景勝は、大変気難しい人物だった様で、人生でその笑顔を一度しか見せた事がないと言われています。それが事実かどうかはともかくとして、そう言われるほどであったため、家臣達も景勝の事を相当恐れていたといわれます。

 それを表すエピソードとして、景勝が数人の配下達と舟遊びをしていた時、景勝の周りに虫か何かが飛んできて、景勝がその虫を払おうとして手を上げるや否や、周りにいた配下達が景勝に殴られると勘違いして、全員舟から水の中に飛び込んだという話があります。

 そんな景勝が一度だけ人前で大笑いしたという話があるのです。それは、当時戦国大名はペットにサルを飼う事が流行していたのか、景勝もサルを飼っていました。上杉家の一同が会した時、そのサルが突然、生前の謙信の真似を(景勝本人の真似をしたという説もある)したのを見て思わず吹き出したという事です。

 でも、人前で笑わないというのは、考え方を変えれば謙信の生涯不犯よりも難易度の高い事ではないだろうか。謙信の生涯不犯は後の項目でその趣旨を説明しますが、この景勝の生涯不笑(造語)は、一体なんの目的があったのかは分かりません。

 この景勝、秀吉の死後は関ヶ原の合戦で西軍方に属し、領土を会津の100万石から30万石に厳封されましたが、景勝の家臣であり、親友でもあった直江兼続が景勝の生活を援助しつづけたという事です。

 たとえ主君でも落ちぶれたら牙をむく世の中で、変わらぬ忠誠を誓い続けた兼続がは大変立派であります。この兼続も謙信の英才教育を受けた人物だけに、そういった道徳をしっかり叩き込まれていたのでしょう。

 配下に裏切られて滅亡した武田家と、落ちぶれても配下に支えられた上杉家。戦国随一と言われた両家のこの正反対の末路は実に興味深いものがあります。これを見るにつけ、一見遠回りの様に見えた謙信の生き方・考え方は、決して間違いではなかったと僕は思うのです。

戻る