seen27 消えない灯
通常練習後の居残り練習はもはや日課になってきた。
そしていつものごとく美咲の怒声が飛ぶ。
「だから、前に出ろっつってんだろ!足が出てねえから姿勢がおかしくなんだよ!!」
猛練習が始まってから1週間近くなる。
疲れの面でも今ぐらいが一番辛いときだろう。身体のふしぶしが痛むに違いない。
しかし美咲は容赦なく服部と宮本の二人にノックの雨を浴びせ続けていた。
二人ともすでに直視しがたいほどにボロボロになっている。ユニフォームは真っ黒になり、肩で喘いでいた。
宮本は一度トイレでもどしたほどであった。
二人の姿を見て明彦もさすがに心配になってきた。
(いくら何でもこれは…。これじゃ二人とも身体が持たないよ…。)
そんな明彦の心配をよそに美咲のノックは続く。たまりかねて明彦が助け舟を出した。
「美咲さん。そろそろ暗くなってきたし、この辺で打ち切ろうよ。」
「…そうだな。よし、終わるか。整理運動忘れんなよ!」
しかし服部も宮本も返事を返す余裕さえなかった。
野球部の部室。
美咲と明彦以外は全員下校していた。
「アキ、先帰っていいぞ。オレは用事あるから。」
「え?こんな時間に用事?」
「うるせーな。何だっていいだろ。」
「いや…、いいけど…。何なら終わるまで待つよ?」
「……いーから帰れ。」
こう言い切られてしまうと、さすがに言う通りにするしかなかった。
「うん…。じゃ、お先に。」
釈然としないまま明彦は一人帰路についた。
明彦は帰り道ずっとここ最近の美咲のことを考えていた。
(何かおかしいな…。あのシゴキにしても……。まるで何か焦っているかのような…。)
なにやら人が変わってしまったような気がする。
そう。ちょうど荻原の後を受けて主将になった辺りからだ。
厳しくなった、冷たくなった…ような気もする
でも、なにかが違う。腑に落ちない。
というのも、ここ数日の鬼のように厳しい美咲…、むしろ今までに増して恐ろしげであるはずなのに、以前より却って脆く見える。
明彦には美咲がどこか無理をしているような気がしてならなかった。
この違和感がどうしても明彦には引っ掛かるのだった。
家に帰り着いた明彦が、体育の授業で使った体操服を洗濯かごに入れようとしたところで忘れ物に気がついた。
「あ、しまった。体操服を入れたナップサック…。部室に忘れてきちゃった。」
練習の疲れと、いろいろ考え事をしてたせいで帰る途中に思い出せなかったのだ。
「汗かいてるからなぁ…。仕方ない。取りにいこう。」
明彦は部室に取りに戻ることにした。
明彦が学校に戻った頃はすでに辺りは真っ暗になっていた。
「部室…、もう閉まってるかもなぁ…。」
一直線に体育準備室へ行って部室のカギを貰ってこようかと思ったが、一応先に部室に行ってみることにした。
「あれ?」
野球部の部室だけ、まだ電気が付いていた。
(美咲さん…。まだ帰ってないのかな…。)
近付くと人影が見えた。それが美咲であることは一目で分かった。
(こんな遅くまで何してるんだろう。)
部室のドアの窓から中を覗いてみる。
奥には明彦の忘れていったナップサックも見える。
「………。」
他に誰もいない部室の中で、未だにユニフォーム姿のまま丁寧にひとつひとつ大事そうにボールを磨いている美咲の姿があった。
いつもの美咲からはとても考えられないような穏やかな表情である。
思わず明彦はその様子を息をのんで見つめた。
−アキ、先帰っていいぞ。オレは用事あるから。−
(用事……って…。ボール磨き…?)
明彦はしばらくためらったが、体操服を持って帰らなければならない。
意を決してノックした。
「!?」
窓の向こうで美咲がかなり驚いた顔をした。
「アキ……!!」
「忘れ物しちゃって……はは……。」
何となく気まずかった。美咲も見られたくなかったのかバツの悪そうな顔をしている。
「………………。」
「……………。」
(うう…、気まずい…。)
場の雰囲気に明彦は耐えられなくなった。
「いや〜…、ちょっと驚いたよ。忘れ物取りにきたら部室が電気付いてるし、美咲さんがボール磨いてるなんて…。」
言ってから明彦は「しまった!」と思った。
もう遅かった。
案の定、美咲はムスッとしてしまった。
「………悪かったな、珍しいことして。」
「いっ…、いや、そういう意味じゃ……!!」
ますますドツボにはまってしまい明彦は慌てふためいた。
とにかく話題をすり替えたいところである。
「ボ、ボール磨きだったらさ。マネージャーに頼めばいいじゃない。」
「麗羅に?一応言ったけどな。あのバカ、サボって帰りやがったんだ。」
「あ…、そうなんだ…。」
「それに、あいつに前やらせたけどさ。いい加減だから全然キレイにならねーの。」
「はあ。確かに結城さん、そういう作業嫌いそうだね。で、仕方なく美咲さんがやってるんだ。」
「うーん…。ちょっと違うな。オレはこういうの嫌いじゃねーんだ。」
もう美咲の機嫌は直ってるようである。美咲はボール磨きを再開した。
「これから日が沈むのが早くなるし、少しでもキレイにして見やすくしてやらないとな。あのアゴ無しとアゴ長のコンビの為にも。」
「服部君と宮本君?」
「ケガでもしたら大変だろ。」
美咲は顔を上げて軽くほほ笑んだ。
目が合って明彦はドギマギした。
「あ…!僕も手伝うよ!!」
「お、サンキュー。」
照れを隠すように、明彦も一緒にボールを磨き始めた。
「…そうだね。ケガは絶対防がないと…。」
「8人しか居ねえもんなあ。」
美咲が苦笑する。
だいぶ雰囲気が良くなってきたので、思い切って気になっていたことを切り出してみることにした。
「だ、だったらさ。ちょっと練習が厳し過ぎるんじゃないかな…。」
「………。」
「……………。」
「……………。」
美咲の反応がない。黙々とボールを磨いている。
「このままだと、いつかケガするんじゃないか心配になったんだけど……。」
明彦がまた気まずく感じ始めたところで美咲は予想しない事を言い出した。
「アキ、お前ここに来る前どこの学校つったっけ?」
「え?前の学校?」
「ああ。前に通ってた学校。」
「そういえば言ってなかったね。貞京だよ。」
「へえ。名門高じゃん。」
「うん。野球部強いよ。」
「そこでも野球部に居たんだろ?」
「うん。1年たらずだけどね。」
「あのアゴコンビ。貞京でレギュラーやれると思うか?」
唐突な質問である。明彦は答えに困ってしまった。
「それは……。」
「無理だろ。レギュラーどころかベンチ入りだってダメだろうな。向こうの補欠でさえ、あいつらと比べたら大人と子供の差がある。」
「………。」
「でもな、アキ。オレ達は、そういうヤツらに勝っていかなきゃいけないんだぞ。」
「………うん。」
「今のペースで夏までやって、ようやくまともに試合できるレベルだ。」
「……そうかもしれない…けど……。」
「個人で勝っていけるほど甘くない。しかも今のウチは人数さえ揃ってないんだ。」
「……………。」
甘くない。自分でも分かってはいたつもりだったが、自信家の美咲に改めて言われると、自分たちの目指す道の険しさがズシリと乗し掛かってくるのを感じた。
「アキは優しいな。」
「え………。」
「誉めてんだよ。」
「……………。」
「ま、ケガだけはさせないように気をつけるよ。でもあいつらは、ちょっとぐらい身体を苛めるぐらいがちょうど良いのさ。」
「……………。」
「技術だけじゃなくて、精神も鍛えてるんだ。上手くなればそれだけ練習も複雑になってくるだろ?今のうちに苦しんでおかないと、その時に困る。」
「…なるほど……。」
「それに、あいつらまだ1週間近くしか経ってないけど、上手くなってきてると思うぜ?」
「上手くなってる?」
明彦の表情が明るくなった。
「ああ。動きは疲れがピークだから少し鈍いけどさ。無駄な動きは少なくなってきてるし、打球への反応も良くなってきてる。思ってたより飲み込みも早いぜ。」
「へえ〜。」
「素質はあるのかもな。このままいけばそれなりの力は付くだろ。今のところ弱音も吐かないしさ。正直あの二人を見直してんだ。」
凄く嬉しそうにまくし立てる美咲を見て、明彦も嬉しくなってきた。
「その言葉聞いたら二人とも喜ぶよ。」
明彦の言葉で美咲はハッと我に返り真っ赤になった。
「ぜっ…!絶対に言うんじゃねえぞ!!」
「ええ〜。言ってあげた方がいいよ。」
「…じゃあ、お前の言葉として言っとけ。」
「なんで?美咲さんが言ってたって伝えた方が励みになるんじゃない?」
しかし美咲は横に首を振った。
「馴れ合いになったらチームは強くなんねえ。誰か一人憎まれ役が居た方が良いんだよ。」
「に…、憎まれ役…?」
「そ。お前は今まで通り優しく接してればいいさ。オレがその分鬼になるから。」
「でも、それじゃ…。」
「誉めてばっかりじゃ天狗になるし、怒ってばかりじゃ人はついてこない。とは言ってもバランス良くやるのは、なかなか難しいからな。だったら役割分担した方が確実だろ。」
「役割分担か…。」
「そう。お前がアメでオレがムチ。オレだってあまり他人に辛く当たるのは嫌だけどな。」
苦笑まじりで美咲が言った。
明彦はここで理解した。
美咲が無理をしているように感じた理由はこれだったのだ。
「……ごめんね、美咲さん。」
「は!?」
突然謝られたから美咲も戸惑った。
「本当なら男の僕がそういう役をしなきゃいけないのに……。美咲さんに…。」
しばらくポカンとしていた美咲だったが、明彦の言ってることを理解した。
「あ……………、あははは!細かいこと気にするヤツだなあ。男だ女だなんて、どうでも良いって。オレもお前も同じ美羽高野球部員、それでいいじゃねーか。」
明彦が思い詰めないように美咲は少し大げさに笑った。
(僕にとってはどうでも良くないんだよ…。僕にとっては……。)
明彦は心の中でつぶやいた。
「やめる…って、お前、そりゃどういうことだよ!」
受話器に向かって声を荒げたのは服部功一である。
『そのままの意味だよ。もう美咲にはついていけねえ。』
電話の相手は宮本四郎である。
『ここ数日の猛練習、お前嫌にならねえか?オレぁ、もうやってらんねえよ。あいつ本気で甲子園目指してるみたいだけど、本当に行けると思うか?辻間東みてーな強豪に勝てるわけねーだろ。』
「そりゃ…、難しいかもしれねーけどよ…。でも、頑張りゃ何とかなるかもしれないじゃん。」
『甘えよ。オレ達本格的にやり始めてからどれだけになるよ?』
「だ、だからよぉ。こうやって猛練習してるんじゃねーか。」
『それよ。つまり美咲は焦ってるわけよ。オレらのよーなシロートを連れて戦わなきゃなんねーからな。あいつはオレ達の身体の事なんて考えてねえって。』
「そ、そんなことは…」
『ねえって言い切れるか?あいつが主将になってからオレら目の仇にされてるじゃん。オレらが上手くねえからムカついてんだよ。』
「……………。」
『そもそもオレは野球がやりたかったわけじゃねーんだ。神田さんが美咲に決闘で負けたから、無理矢理入らされたんだ。そのオレが何でここまでしなきゃなんねーんだよ。』
「だ、だけどさぁ……。」
『とにかくオレはもうやめるからよ。お前もマジ考えた方がいいぜ。』
そう言って宮本は一方的に受話器をおいた。
「あ…!おっ、おいっ!!四郎!もしもしっ…!!」
しかし、呼びかけても帰ってくるのは冷たい電子音のみ。
服部は全身から力が抜けていくような思いだった。
「ど…どうしろって言うんだよ…。こんなこと、神田さんか美咲か…どっちに話しても殺されるぜ……。」
美咲や明彦の思いとは裏腹にチームに亀裂が走りつつあった。