seen21 裏切り
「一体何をやってるんですの!!」
不機嫌そうな麗羅の声が響く。
試合はすでに中盤まで差し掛かっていた。
この時点で2対0。マネージャーが不機嫌になる試合展開ではないはずなのだが。
しかもまだ1本のヒットも許していない、一方的な流れである。
麗羅はこれが気に入らないのだ。
「美咲さんなんてメッタメタに打たれてしまえばいいですのよ!!」
麗羅にとっては美羽の勝利はどうでも良く、美咲が打たれてほえ面をかくのを見たいだけなのであった。
しかし、その麗羅の思いとは裏腹に、この回も美咲は全く危なげのないピッチングでスコアボードにまたひとつゼロを並べてベンチに帰ってきた。
↑自分をおぞましいと自覚しているらしい
この時点で美咲の評価は試合前とは全く異なっていた。
「この投手いけるんじゃないですか?」
「うむ。ケチのつけようがない。…考えてみてもええかもしれん。」
「このあと崩れなければ…。」
「崩れんじゃろ。もう朝日が丘は戦意喪失状態じゃ。」
「朝日が丘はチームワークいいですから。まだ一波乱あるんじゃないですか?」
「いや、チームワークは確かにええ。じゃが、チームが逆境に立った時、みんなのケツを叩くカリスマのある選手がおらんのじゃ。」
チームワークが良いだけに、一人チームを引っ張れる中心選手がいればその選手を中心に大きな力を発揮できるが、そういったまとめ役がいない場合苦しい場面でチーム全体の雰囲気が暗くなってしまうのだ。
悪く言えば馴れ合いの集団ということである。
この試合の場合、朝日が丘はカラ元気だけは出すものの、半分白旗を揚げた状態になっているのである。
一方の美羽は、美咲がチームのカリスマ的存在である。その美咲が過去最高の投球をしているのだから、点差はわずか2点ながら5点リードしているぐらいの精神的余裕があった。
「あのピッチャーを中心に、美羽の方が先に緊張をうまくコントロールできた様じゃのう。」
しかし、一つまだ美羽にとって不安材料があった。
美咲がまだヒットを打たれていない事である。
これはもちろん重圧につながるし、もし記録が途切れたらその時点から緊張の糸が切れてしまう危険性もある。
これは美咲のみならず、守備につく他の選手にも言える事であった。
「記録を達成できれば問題ないんじゃがの。」
そう言う藤岡は内心では反対に記録は途切れてほしかった。
美咲がその時どう対処出来るかを見極めたかったし、あまり記録を作られると表舞台に出てしまい、もし獲得しようとすれば他球団と競合しなければならなくなるからだ。
「あのピッチャーって、この前の練習試合で打ち込んだ人でしょ?まるで別人みたい…。」
絵理子がそう思うのも無理はなかった。この前とは全然違う。
投球に無駄な力が入っていないし、何より風格がある。素人目にも分かる。
この前の美咲はマウンド上でカッカして、ある意味見苦しかった。
「アレが本当のアイツの力さ。この前の方がどうかしていたんだ。」
晃司はさも当然といった感じである。
「全国でも通用する実力はあるよ、アイツは。」
そう言う晃司を見て絵理子は不安になってきた。
「だ…大丈夫?このまま行くと次はウチと当たるのよ?」
心配そうな絵理子を見て晃司は軽く微笑んだ。
「オレが打てないと思うのかい?」
この晃司の表情を見て絵理子の不安は一気に吹き飛んだ。
「ううん。晃司なら打てるわ。」
晃司が打てるというのなら間違いなく打てる、そう確信を持っていた。
(絶対に勝て、美咲…。そしてオレがお前に引導を渡してやる。)
順調に来た記録は意外にあっさり途切れた。
「あ、いけね。」
変化球がすっぽ抜けて真ん中に入ってしまった。
カキィン。
『あーっ!落ちたぁ!ライト前に落ちました!ピッチャー近藤の記録7回でストップ!朝日が丘は待望の初ヒットです!!』
「ちぇっ。」
美咲もさすがに記録には気がついていたので面白くなかったのは事実である。
並の投手だとここで先ほどの失投を悔やんでしまうところだろう。
しかし霧野美咲の精神的強さ、悪く言えば図々しさは常識の範疇では推し量れるレベルではなかった。
「ま、いいか。どうせ晃司んトコで達成するんだ。楽しみは先に取っておこう。」
平常心を保つため自分にこう言い聞かせているのではなく、心の底からこう考えているというのが美咲の恐ろしいところだ。
しかし、美咲はそうでも他の選手はさすがにそういうわけにはいかない。
残念な気持ちと、反面ホッとした気持ちが混ざって緊張が切れてしまった。
この場面、相手は当然送ってきた。
しかし、サード荻原のバント処理が遅れた。
(しまった!)
あわててボールを引っつかんだが2塁はもう間に合わない。1塁も微妙なタイミングだ。
(せめてバッターランナーは殺さないと!)
あせって投げたのがまずかった。
『送球がそれたァ――っ!!』
しかもライトもカバーに入っていなかった。
「す…すまん…!」
結局この間に一人帰ってきた。2対1。そして無死3塁。いやなムードになってきた。
「もういいよ。それよりこの後だ。」
気持ちを切り替えなければならない。
そこで美咲はあえて荻原に聞いてみた。
「主将、このあと相手はどう攻めてくるかな。」
しばらく荻原が考えて、
「…スクイズじゃないか。相手は全員お前の速球にタイミングが合ってない。…それに今のプレーで守備が乱れていると判断したはずだ。」
最後の方は小声になったが、それを聞いて美咲が破顔した。
「分かってんじゃねーか。あんなエラーしてもダテに主将はやってねえな。」
「なっ…何をっ!!」
「その怒りは守備にぶつけてくれよな。さあ、戻った戻った。」
スクイズは美咲も読んでいた。だがあえて聞いてみる事で荻原に冷静さを戻させた。そして最後は憎まれ口を叩いて気持ちを楽にしたのだった。
相手打者は初めからバントの構え。一瞬バスターの可能性も考えたが、
(オレの球にただでも合ってないのに、そんな高等技術できるワケがない。)
と、スクイズ一本に絞った。
(全部速球でいくぞ!)
高めのストレート。思惑どおり相手は小フライをあげた。
「よし、まずひとつだ。」
(くそっ…、そう簡単にバントはできんか…。)
次のバッターがベンチからのサインを確認して左打席に入る。彼がバットをかなり短く持っているのに美咲は気がついた。
(コイツはバントじゃねえな…。)
チラッと明彦の方を見る。
(アキ、お前のところに打たすぞ。)
(OK。)
速球で2〜3球威嚇して、そこからドロンとしたスローカーブ。
バッテリーはバント警戒と思い、速球だけに狙いをしぼっていたためスローカーブに体が泳がされる。
打球が1塁方向に転がると踏んで明彦が猛然とダッシュする。3塁ランナーを牽制しなければならないし、ランナーが突っ込んできたらバックホームしなければならない。
思ったより打球は強かったが、明彦の守備力はチーム1である。
「アキ!ホームだ!」
美咲の指示を聞いて急いでホームに投げる。神田も好ブロックを見せて間一髪ランナーを刺した。
「アウト――――!っ」
「おっしゃあああ!!」
この後のバッターも打ちとってこの試合最大のピンチを乗り越えた。
スタンドで見ていた藤岡もピンチを乗り越えた時思わずこぶしを握りしめた。
「ええピッチャーじゃ……!」
「きゃ―――っ!素敵ですわ、俊也様!完璧なブロックでしたわよ!!」
ベンチで麗羅がはしゃいでいる。
(うう…。僕も頑張ったのに誰も褒めてくれない…。)
そう思っていたところで美咲が明彦の方を軽く叩いた。
「ナイスプレーだったぜ、アキ。」
明彦の表情がぱっと明るくなった。
(わーい。美咲さんに褒められちゃった。)
最終回。
マウンドに立つ美咲に観客全員が注目していた。
記録は途絶えた。完封も逃した。
しかし美咲の投球は小気味良く見るものを惹きつけるのだった。
特に尻上がりに球速が増して行く。
ラストバッターを三振に取った時、そのボールは過去最高の148キロが記録されていた。
スタンドで最後まで見ていた明美とまどかも感動していたようだった。
「先輩〜、すごいですねえ。次の号の1面決まりですね〜。」
「そうね!我が校のワルキューレ、マウンドで燦然と輝く!ってのは褒め過ぎかしら。」
「でも霧野先輩はなんでわざわざ近藤って名乗ってたんですか〜?」
「バカねえ。本名でやったら参加できないでしょ。高校野球は女子は出場できないんだから。」
と、ここでハッとした。
「…てコトは、記事にしたらまずいじゃない…。いくら校内新聞とは言っても、これだけのニュースになるとそのうち外に漏れちゃう…。」
「どうしたんですか先輩?」
何事にも無関心そうな美咲が初めて物事に全力で取り組んでいるのを見た。勝利投手になった時の表情もまた今まで見たことがないほどの笑顔だった。
美咲にとってこの野球がかけがえのないものである事は明美にも伝わってきた。
それを自分が粉々にしてしまうかもしれないのだ。
(…どうしよう…。自分は未来の超一流新聞記者よ。感情に流されずに真実を伝えるのが仕事のはずよっ!)
とは思ってみたものの、
(でもでも…。あんなに美咲が一生懸命やってるのに、それをメチャクチャにしてしまってもいいの…?)
「う〜ん……。」
「先輩?」
「まどかっ!」
「はい!?」
いきなり怒鳴られたもんだから思わず直立不動してしまう。
「今日の試合は見なかった事にするわよ。」
「えええっ!?なんでですかァ〜〜〜!!」
「あたしは、正義の新聞記者!週刊誌の記者とは違うのよっ!!」
「ふえ〜?なに言ってるのかさっぱり分かりません〜〜!!」
9イニングを投げて失点は1ながら自責点はゼロ。奪った三振は19。これに最高球速148キロと来れば、いくら無名校の選手でも新聞記者が放っておくはずがない。
「やべえ!記者に見つかったらコトだぞ!ブッチ、急いで逃げようぜ!」
「そう言う訳にもいかんだろ。…仕方ない、美咲お前は一足先に制服に着替えてろ。記者の方はなんとかごまかしとく。」
「わ…、分かった…。次からはこの場合の事も考えとかないとな…。」
美咲がこっそり球場を出た頃、新聞記者が水渕のところに詰め掛けていた。
しかし、先ほどの好投を演じた天才投手はすでに球場を出たと知り、いずれも肩を落としていた。
「オーホホホホ!!記者の皆さん、元気ないですわね!!」
大声とともに麗羅が記者の前に現れた。
記者は最初「何だコイツは。」というような顔をしたが、そのうちの一人が、
「も…、もしかしてキミは美羽の生徒かい?」
と聞くと、状況は一変した。
「そのとおりですわ。」
「ほ…本当か!?ちょっと近藤君について聞かせてくれないか!?」
他の記者たちも群がる。
「よろしいですわよ。」
そう言って麗羅は口の端を醜く吊り上げた。
「とっておきの特ダネを差し上げますわ。」