seen10 刈谷の答え

 

(野球か………。)

 刈谷の心は揺れていた。もともとは大の野球好きなのだ。

 ボールを打つ感覚、難しい打球を自慢の俊足で追いついてキャッチするときのあの快感。盗塁を決めたときのあの喜び…。

 何より個人競技にないあの連帯感が好きだった。

 自分勝手な行動は取る訳にはいかないが、そのかわり全員で目標を達成したときの喜びはものすごく大きい。

 とはいえ、先ほど美咲に言った言葉も嘘ではない。

 彼は陸上競技も好きだった。

 すごい記録を作りたい。そんな気持ちもある。

(2つに1つか………。)

 

 職員室。

 水渕に体育教師の村越が声をかけていた。やや中年太りで意地の悪そうな男である。

「困りますなあ、水渕先生。」

「は?何の事ですか。」

「とぼける気ですか?最近おたくの部員が刈谷にいらん事吹きこんでいるそうじゃないですか。刈谷は陸上部の宝なんですよ。部を強くしたい気持ちはわかりますけど、これはあんまりなんじゃないですか?」

 水渕も言い返す。

「あれは生徒が自発的にやっているだけです。それをとやかく言うつもりはありません。もし、それで刈谷が転部を考えるようだったら、それは彼らの意志ですから。」

「あんたねえ。そういう問題じゃないでしょう。」

 村越の声が荒くなってきた。

 しかし水渕もひるまない。

「大体もともと野球部だった刈谷を陸上に引きぬいたのは村越先生本人だそうじゃないですか。」

「あ…あんな試合もできないような部で彼の才能を潰すのは惜しいと思ったからですよ。」

「そうですか?僕は嫌がる刈谷をなかば強引に転部させたと聞いてますけどね。」

「な…、何をバカな……。と、とにかく!これ以上彼にちょっかいをかけないで下さいよ!」

 そう吐き捨てるように言って、村越は職員室を出ていった。

 

「刈谷。」

「あ、先生。」

 刈谷が陸上部の部室に向かう途中で顧問の村越が声をかけてきた。

「野球部が何を言ってきてるのか知らんが、相手にする事なんかないぞ。お前は陸上をするために生まれてきた男なんだからな。」

「………はい。」

「先生はお前に期待しているんだ。お前もそれに応えてくれよ。」

「はい。」

 

 それから刈谷は部室にやって来た。中から他の部員達の話し声が聞こえる。

「最近よく神田が来るけど何してんだ?」

「あれ、お前知らねえの?神田は野球部に入っててよ、人数が足りねーから刈谷を誘いに来てんだぜ。」

「はははは!なんだそりゃ。」

「でもよ。正直オレは神田を応援してんだ。刈谷がいなくなればオレが代表に選ばれる可能性も出て来るしさ。」

「そうだな。あいつ2年のくせに代表に選ばれやがって。でも、あいつがいなくなったら選ばれるのはお前じゃなくて、オレだよ。」

「バーカ。お前なんかに負けるかよ。」

「なんだと!」

 ガチャッ。

「あ…!刈谷……!!」

「どーも。先輩。」

「お…おう……。」

 気まずそうな2人の先輩を尻目に刈谷はさっさと着替えてグランドに出ていった。

(なんてヤツらだ……。)

 ますます陸上を続ける事に対しての疑問が大きくなってきた。

(自分がこの部に必要とされていると思っていたのは、オレの思いこみだったのか?)

 3年は自分を妬み、同級生はやけによそよそしい。

 自分が求めていたのはこんな世界だっただろうか。

 そこで今朝美咲に言われた事を思い出した。

(あんたはもう一度野球をやりたいって気持ちはないのかい?)

(中学までずっと野球一筋だったんだろ。甲子園に憧れもあったんだろ。そう簡単に今までの自分を否定できるのか?)

(心の底からやりたい方を選べばいいのさ。)

「……………。」

 ふと、野球部のほうを見た。水渕はいないが自発的にキャッチボールをやっている。彼らの表情はここから確認は出来ないが、とても楽しそうに見えた。

「……………………。」

 彼は途方もない孤独感に襲われた。

 その日の練習にはあまり身が入らなかった。

 

「刈谷。」

 下校しようとしていた刈谷に神田が声をかけた。

「たびたび悪いな。でもよ、オレ達は本当にお前の力を必要としてるんだ。」

「オレを…必要……?」

「ああ。近藤がケガをしちまって…。あいつがいなくなってウチのチームは機動力が大幅ダウンしちまってんだ」

「なるほど。」

「あいつがケガをしたのはオレのせいだ。」

「お前の……?」

「練習中にクロスプレーがあったんだ。」

「ふむ。」

「みんな試合を楽しみにしてた。オレもな。オレのせいでみんなをがっかりさせたくない。」

 特に美咲は試合を楽しみにしていた。あんなに明るい表情の美咲は今まで見たことがなかった。それを自分が台無しになどしたくなかった。

「………。」

「頼む。野球部に入ってくれ。オレのためじゃなくていい。あいつらのためにも頼む。無理を言ってるのは分かってる。オレが気に入らねえなら、代わりのやつもを探して、オレが出ていってもいい。あいつらと一緒に野球をやってくれ、頼む!」

「……………。」

「……………。」

「……………少し……考えさせてくれ………。……明日、必ず返事する。」

「わ…分かった。期待させてもらうぜ。」

 こうして彼らはこの日は別れた。

 

 翌日。

 刈谷は目を覚ました。

(やっぱりな。)

 昨日あれからずっと考えていた。

 そしてひとつの答えにたどり着いた。

 そして今朝もその気持ちは変わっていなかった。

 もう迷いはない。自分は自分が納得した道を進む。誰にも邪魔はさせない。

 数時間後。彼は職員室の村越の席にいた。

 机の上には紙が置かれている。

「………なんのマネだ、刈谷……。」

「退部届です。」

「血迷ったか!お前の足なら将来は世界だって目指せるかもしれないんだぞ!」

 村越がまくし立てる。しかし、刈谷は眉ひとつ動かさなかった。

「申し訳ないとは思っています。でも……。」

 ひと呼吸おいてきっぱりと言った。

「もう決めました。」

「そんな………。正気か…。……お前の人生を棒に振るかもしれないんだぞ。」

「そうかもしれません。でも、このままの方が僕は将来きっと後悔する。」

「なあ、刈谷。もう一度考え直せ。お前がやめたらオレの立場はどうなるんだ。まるで、オレがお前をやめさせたみたいになるじゃないか。」

(この人も、結局自分の事しか考えていないのか。)

「先生。さっきも言いました。もう決めたんです。」

「刈谷……。」

「お世話になりました。」

 もう話す事はない。刈谷はこの話を切り上げた。気分は爽快だった。

 

 強気で知られる神田だが、正直心は焦っていた。

(あんな大見栄きったけどよ。正直言って苦しいよな。よその部のエース級を引きぬくなんて土台無理な話だもんな。)

 刈谷は返事をくれると言っていたが、もう昼だというのに一言も言いにこない。

(こっちから聞きに行くべきか?でも、それじゃオレがヤツを信じてね―みたいだしな。)

 もしダメだったらどうしようという気持ちが膨らんできた。

(今日って何曜だ?金曜日か。やベーな、今日明日しかねーじゃねーか。)

 そう考えて首を横に振った。

(悪い事ばっか考えてもしょーがねー!いい返事を待つしかねえだろ。ったく、最近オレどうかしてるぜ。女々しくなった気がするな。)

 

 そして放課後になった。

 荻原が部室に向かうとすでに誰かユニフォーム姿で立っている。

 それは実に久しぶりに見る姿だった。

「刈谷!」

「あ、荻原先輩。いや、主将でしたね。」

「ウチに入る気になってくれたのか!」

「はい。野球部に戻る事にしました。最初は正直迷いました。でも、神田は近藤を自分がケガさせてしまった事とか、自分が部をクビになってもみんなに試合をやらせてやりたいとか、正直な気持ちを包み隠さずみんな話してくれました。そんな人のいる部なら、高校生活のすべてを賭けてもいいと思ったんです。」

「そ…そうか。神田のヤツ、そんな事を……。」

 

 神田はちょっと憂鬱な気持ちで部室に向かっていた。

「結局な〜んも言ってこなかった。」

 横には美咲と明彦もいる。

「断られたのかな。」

「まあ、おめーの説得でおちるとは思えんな。」

「なんだと、てめえ!」

「あれ!?待って!あれは!?」

 明彦が指さした。同時に神田がその方向へ走っていった。

「刈谷!お、お前野球やる気になったのか!?」

「ああ。あんたには感謝するよ。もう一度このユニフォームが着れるとはな。これからよろしく頼むぜ。」

「おっしゃ―――!やったぜ!どーだ、見たか美咲!この神田俊也、やるときゃやるぜ!」

「フン。…ま、よくやったよ。」

「だろだろだろ―――っ!?とゆーわけだからよ、今度ご褒美デートしようぜ。」

「このタコ!ちょっと誉めてやったら調子に乗りやがって!もとはと言えばてめーのせーだろーが!何がご褒美だ!マイナスからゼロに戻っただけだ、アホ!」

「いでででで!ゴメン、ゴメンよ美咲ちゃん!」

「ははは。神田、刈谷はオトせても美咲はオトせないか。」

 荻原の絶妙なツッコミに全員大爆笑した。

 それは安堵の笑いでもあった。

(これで試合が出来る………!!)

 

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