seen9 奔走
練習試合まであと1週間ほどのある日。
「美咲―っ!」
女生徒が一人美咲に声をかけた。美咲の女友達の大倉明美である。
「おう、明美。なんか用か?」
「今日一緒に帰ろーよ。おいしいアイス屋さん見つけたんだ。」
「わりーな。オレ用事があるんだ。」
「えーっ?またぁ!?最近美咲付き合い悪いわよ。」
そこに明彦がやって来た。
「美咲さん。もうすぐ時間だよ。」
「ああ、分かった。すぐ行く。じゃな、明美。」
「……。」
美咲は明彦とどこかへ行ってしまった。
「………デキてるわね。あの2人。」
明美の第六感はそう直感した。
「………ちょ…ちょっと意外なカップリングね〜…。」
ところで気づいたかもしれないが、この頃になるとチームメイトもみんな馴染んできて、さっきの明彦のように美咲を苗字でなく名前で呼ぶようになっていた。
このあと神田もくっついてきて3人でグランドに向かった。
「練習試合まであと1週間だね。」
「ああ。楽しみだな〜!早く試合をやりてーよ。」
「試合は5年ぶりになるの?」
「ソフトボールならやったけどな。やっぱりちょっと感覚が違うんだよな。」
「矢富高校って強いのか?」
と神田が美咲に訪ねる。
「普通かな。どっちかっていうと打撃重視のチームだ。でも、特別目立つヤツはいないな。」
「やっぱり勝ちたいよね。」
「勝つに決まってんだろ。オレが投げるんだぞ。」
「す…すごい自信だね。」
「ふふふ、見てろよ。次の日曜が永遠に語り継がれるであろう美咲伝説の幕開けだぜ。」
「おおっ!かっこいいぜ美咲!!」
「……はは………。」
ちょっとついて行けないかな、このノリは、と明彦は思った。
「そーゆーわけで最近日記をつけ始めてるんだ。」
「日記?」
明彦はすっとんきょうな声を上げた。美咲が日記なんてとても想像できない。
「オレがプロで活躍したらその日記をもとに本を出版して印税稼いでやるんだ。」
ちょっとはしゃぎ過ぎである。明彦は開いた口がふさがらなかった。
神田は明彦とは逆の反応である。
「オレもやろうかな……。」
やめとけ。
全員着替えていつものようにウォーミングアップ。試合が近づいている事もあってこの日は連携プレーの練習が割合的に多くなっていた。
「よし、じゃあ次はバックホームやるぞ。外野手ランナーやってくれ。」
指名された内の一人は近藤誠。彼はその足の速さからセンターを任されている。身長は175センチ、やや細めの体つき。メガネをかけているがその下はなかなか整った顔立ちである。
それから神田の子分の一人服部功一。彼は神田のパシリをやっていたので足がなかなか速い。彼はレフトにポジションが決まっている。体つきは小柄だ。
もう一人は香田洋介。チーム一のガッツマンでいつもユニフォームは泥だらけである。体格的に特別な特徴はない。彼は今年野球部に入部した数少ない(わずか2人)1年生である。
「本番の感覚でやってくれ。」
「監督。そう言われても僕ら本番の経験ありませんし。」
「………まあ、全力でやってくれという事だ。内野のどこに転がすか分からんぞ。ランナー全力疾走で来るから、すばやく処理しないとアウトに出来ないぞ。」
こうして内野のバックホーム練習が始まった。
何回目だっただろうか。ショートゴロを副主将の甲斐がさばいてバックホームした。これがかなりきわどいタイミングだったためクロスプレーになって神田とランナーの誠が交錯した。
「ぐあっ!!」
誠が悲鳴を上げる。
「ど、どうした、近藤!」
「大丈夫か誠!」
「うぐぐ…。」
かなり苦しそうだ。どこかケガしたのは間違いなさそうである。
「と…とにかく保健室に連れて行くんだ!」
神田が誠をかかえて保健室に連れて行き、それに他のみんなもついていった。
このあと誠は病院に運ばれた。左手首を骨折していた。
「みんなゴメン…。こんな大事なときに…。」
「近藤、お前が謝ることはない。」
と荻原。
「近藤は…どうなんですか、監督。」
「今度の練習試合どころか、今年の夏の大会も無理だそうだ…。」
全員言葉を失くしてしまった。特に神田は自責の念にかられて青い顔をしていた。
「……す…すまねえ……。ブロックが乱暴だったかもしれん…。」
そう言って口を真一文字にする神田。みんなも何と言っていいか分からなかった。
悔しさをこらえて震える神田の肩を美咲が軽く叩いた。
「おめーでも落ち込む事があるんだな。」
「あ…あたりめーだろ!平気でいられるかよ。」
「…これは事故だ。誰が悪いわけでもねえよ。」
「美咲…。」
一番試合を楽しみにしていたのは美咲である。その美咲になぐさめられて神田は自分自身にどうしようもない腹立ちを覚えた。以前の彼では考えられない事である。わずか1週間だが、この期間が神田を変えていた。
「………どうする………。練習試合…。」
「断るしかねーだろ。誠抜きでやるわけにもいかん。」
そこで誠が言った。
「ダメだよ、みんな練習試合に備えて練習してきてるのに。誰か野球部に誘って試合をしないと。」
「………………。」
「オレの事なら気にするなよ。ケガを治したらすぐにレギュラーを奪い返してやるから。」
翌日部室で全員考え込んでいた。
「あと一人…。どうする?とにかく誰でもいいから入れないと試合が出来ない。」
「………出来る事なら経験者がいいけどな。もう練習試合までほとんどないわけだし。」
重苦しい雰囲気に耐えかねて美咲が明るい声で言う。
「別に練習試合じゃん。負けたってかまわね−よ。」
本心とは裏腹だが美咲はそう言ってみんなの気持ちを楽にしようとしているのだろう。
「……まあ、一人だけいるにはいるんだが…。足が速くて、野球経験のあるヤツが…。」
「ほんとか!?じゃあ、そいつを野球部に入れよう!」
「でもあいつは陸上部のホープなんだ…。」
「大輔!まさか刈谷のことか?いくらなんでもあいつは無理だろう。」
「でもあいつはもともと野球部だったんだぞ。」
「元野球部?なんでやめちまったんだ。」
「人数があまりに揃わなかったからな。足の速さを陸上部にスカウトされて転部してしまったんだ。今じゃ陸上部になくてはならない存在になってる。」
そこで神田が机を強く叩いた。みんなが注目する。
「オレに任せろ。なんとしてもそいつを野球部に連れ戻してみせる!」
「か…神田、お前がか?」
「こうなったのは元はといえばオレのせいだ。オレが何とかする!!」
そう言って神田は部室を出ていった。
「そんなうまくいくもんか?」
「……多分無理だろうな。」
「まあダメだったときはオレがこの前の戦法でテキト−なヤツを連れてきてやるよ。」
「美咲。それだけはやめろ。」
神田はクラスの陸上部の人に刈谷のクラスを聞き出した。
「1組か。」
2年1組に姿を現した神田。校内一の不良生徒の突然の乱入に教室はちょっとしたパニックに陥った。
「刈谷ってヤツはどこにいる。」
「か…刈谷ならちょうど今職員室に日直日誌を提出しに行ってます!」
「そうか。邪魔したな。」
そう言い捨てて教室を出る。彼が刈谷を見つけたのはちょうど教室から少し出たところだった。
「お前が刈谷健治だな。」
「そ…そうだが…。」
刈谷は陸上部のホープでもあり、ルックスもいいので新聞部の恋人にしたい男ランキングで毎回1位という校内一の人気者だ。
ちなみに恋人にしたくない部門ランキング毎回1位は彼の目の前にいる人物である。
「オレに何か用かい。」
困った顔で聞き返す刈谷。当然だ。自分が番長に因縁をかけられなければならないような恨みをかった覚えはないのである。
そう思っていただけに神田のセリフは意外だった。
「オレは回りくどい言い方は嫌いだ。単刀直入に言うぞ。野球部に入部してくれ。」
「………。」
「お前はもともと野球部員だったんだろう。」
「は…はは…。何を言い出すかと思えば…。悪いけど、オレはもう陸上部のレギュラーなんだぜ。今更戻る事なんてできねえよ。」
「そこをなんとか頼む!」
「ダメダメ。今転部なんかしたらたくさんの人に迷惑をかけてしまう。それに野球部に戻ったって試合すら出来ないじゃないか。」
「人数は揃ったんだ。」
「へえ、そうなんだ。だったらわざわざオレを入れる必要ないだろう。」
「……一人練習でケガしちまってな…。」
「…それで、オレを誘いに来たってわけか。悪いが他を当たってくれ。オレはもう陸上部の人間なんだ。」
そう言って立ち去ろうとする刈谷。
「お前しかいないから、こうして頼んでるんだ。絶対にあきらめねえぞ。」
「無駄だよ。悪い事は言わないから他を探す事だ。」
その様子を4組の教室から美咲が見ていた。
「やっぱうまくいかねえか。こりゃ骨が折れそうだぜ。」
それから翌日、翌々日と神田は刈谷の説得に奔走した。
「見て見てー、あれ。最近あーやってずーっと刈谷君を追っかけまわしてんのよ。」
「やーね。霧野さんにふられて変な道に走ったんじゃないの。」
「そんなの一人で極めてろっつーの。刈谷君まで巻き込むんじゃねーよ。」
そうひそひそ話をする女生徒達。
「ええい!このバカアマども!ぶっ殺すぞ!!」
「キャ――――!!変態が怒った!!」
「よう。」
美咲は刈谷に声をかけた。
「あんた、もともと野球部だったんだって?」
「…なんだキミも勧誘か?野球部はいつから不良の溜まり場になったんだ。」
この刈谷の切り返しにはちょっと美咲もムカッと来た。
(…落ち着け。ここで怒ったら神田と一緒だ。)
努めて平静を保ち美咲が切り出した。
「陸上は楽しいかい?」
「ああ、楽しいよ。オレの生き甲斐だ。」
「野球よりもか?」
「もちろん。こっちの方がずっと楽しいね。」
「それは本気で言ってんのか?」
「嘘をついてどうなるんだ。」
「どうだか。」
そう言って美咲は鼻で笑った。
「どういう意味だ。」
徐々に刈谷の方が声が荒くなった。
「別に。オレはお前以外の誰でもかまわないんでな。頭数さえ揃えば。」
「ふっ。まるで君が野球をやるような口ぶりだな。」
そこで、あっと思った。
「あ…あはははっ!そっ…そうか!?」
焦る美咲。自分が投げるなどと簡単に野球部以外の人間に話すわけにはいかない。
「神田にも言っといてくれ。いくら言っても無駄だと。オレは転部する気はない。」
「へえ、あんたはもう一度野球をやりたいって気持ちはないのかい?」
そう美咲に言われて立ち去ろうとした刈谷の足が止まった。
「甲子園に挑戦できるのは高校の3年間しかないんだぜ。」
「…………。」
「中学までずっと野球一筋だったんだろ。甲子園に憧れもあったんだろ。そう簡単に今までの自分を否定できるのか?」
「……………。」
「まあ、無理強いはしねえよ。あんたにはあんたの立場があるだろうしな。別に陸上が悪いなんて言ってるわけじゃねえし。あんたが迷惑だって言うんならあのバカにもう付きまとわないように言っといてやるよ。」
先ほどまでの刈谷とは様子が違う。彼は葛藤していた。野球と陸上に板ばさみになっているのだ。
「ひとつだけ言っとくぞ。野球に戻るんなら、これが最後のチャンスだぜ。」
「………!!」
そうなのだ。ここで陸上を選んだら、これからの人生は陸上選手を目指す事になる。オリンピックに出場し金メダルを取る…というのが最大の目標に設定されるのだ。その道に入ってからは野球に戻るなんてことは出来ない。
野球を選ぶのだったら、こうして野球部から勧誘が来ている今しかないのだ。
「………オ……。」
刈谷がうめくように洩らした。
「……………。」
表情はかなり苦しそうだ。
「…………オレに………どうしろと…………。」
「簡単だよ。心の底からやりたい方を選べばいいのさ。」
身体がふたつあったらいいのに。おそらく刈谷はこう思ったことだろう。
美咲は大きな手応えを感じていた。
(種はまいた。刈り取れるかどうかはお前次第だぜ、神田。)