seen8 始動
「美咲ちゃん。ノド渇かない?何か買ってこよ−か。」
ある人物のその声にクラス全員が目を丸くした。
当の美咲本人は別段驚いた様子もなく、こう返事した。
「ポカリ。代金は払っとけ。」
「えー、そんなー。オレも今月ピンチなんだよ。頼むよ美咲ちゃん。」
「あぁ!?なんか文句あんのか。」
「いいえ!愛する美咲ちゃんのためだもんね!んじゃ、神田俊也ポカリ買いに行ってきまっす!」
「30秒以内だ。遅れたら殺す。」
「へーい!!」
あわてて教室を飛び出す神田。それに続く神田の子分二人。
その様子を見た明彦が美咲に質問した。
「ねえ、あの3人と何かあったの?」
「さーね。よっぽど怖い目にあったんだろ。」
美咲と神田の力関係に何らかの変化が起きているのは間違いなかった。
職員室で水渕はメンバー表に目を通していた。ついこの間までほこりまみれだったこのファイル、最近ではやたらと出番が多くなっている。今日も、3人の名前を書き加える事になった。
「神田俊也、キャッチャー。服部功一、宮本四郎、守備位置未定…。」
神田の他の2人は神田の子分であるあの2人である。
「どんどんガラが悪くなってくるな…。」
苦笑する水渕。無理もない。やっとメンバーが揃ったうちの半数が問題児なのだ。
「でも、これで本格的に練習に入れるぞ。」
あきらかに素人軍団で、とても戦えるチームではないが、底知れぬ可能性を秘めているように思えた。
さて、全員がユニフォームに着替えて、神田たちの自己紹介をはじめることになった。 神田の事は自己紹介などしなくてもみんな知っているが、こういう場を設けてお互いが打ち解けるきっかけを作る必要があったのだ。
「自己紹介〜!?なんでそんなめんどくせえ事しなくちゃなんねえんだよ。」
不満たらたらの神田だが、そんな事など体育会系熱血バカの荻原はおかまいなしだった。
「はっはっは!照れるな照れるな。みんなに自分の胸のうちをドーンと伝えるんだ!」
「別に照れてなんかねえ!」
悪態をついた神田だが、観念したように口を開いた。
「オレが神田俊也だ。ンな事いちいち言わなくても知ってんだろ。しょうがね−から、野球部に入ったけどよォ。くれぐれもオレの足は引っぱんなよ。あ、それから、美咲はオレの女だからな、手ぇ出したやつはぶっ殺す。」
と、いい終わるか終わらないかのうちで美咲に思いきり蹴られた。
「そんな自己紹介があるか!大体いつオレがてめーの女になった!!」
「ひええ!ゴメンよ美咲ちゃん。」
神田のコメントで一瞬険悪な雰囲気になったが、美咲の好フォロー(?)でその場の雰囲気はなごんだ。
他の二人の自己紹介も終わって練習開始となった。
準備運動とストレッチをして全員がランニングを始める。その様子を他の生徒たちが驚いて見ていた。
「おお?野球部が真面目に練習してるぞ!」
「野球部ってあんなに人数いたっけ?」
「おい、あれ神田じゃねえか?」
「うちって野球部あったのか。」
口々に言う生徒たち。
走りながら明彦が美咲に話しかける。
「これだけ注目されるとなんだか照れくさいね。」
「ったく。じろじろ見んなよ。ばれちまうじゃねーか。」
特に美咲は自分が男装して混じっている事がばれたらまずいので注目されたくなかった。
「ところでよ、美咲。」
そこに神田が口を挟む。
「何だよ。」
「お前、その帽子によく髪の毛収めてるな。」
「何を言うかと思えば…。」
「いや、どーやってあのボリュームをそん中に収めてんのかなって。」
「テキトーにしばって無理やり突っ込んでるだけだ。」
「それだけ?……むう………謎だ………。」
そこで、荻原に怒鳴られた。
「コラ!何ペチャクチャ喋ってんだ!神田!罰としてお前が全部号令かけろ!!」
「ええ〜っ!?なんでオレだけ!」
「うるさい!主将命令だ!さっさとしろ!」
「くそっ!覚えてろよおめーら!ファイトォ―――――――――――――ッ!!」
「ゼッ!」
「オッ!!」
「ゼッ!」
「オッ!!」
「ゼッ!」
「オッ!!」
「ゼッ!」
「オッ!!」
「ゼッ!」
「オウ!!」
「あー疲れた。ランニングだけで汗びっしょりだぜ。」
さすがに運動していなかった3人組はランニングだけでへとへとになっていた。
特に神田は一人で掛け声をかける羽目になったので余計だった。
「はっ。これぐらいで音をあげてちゃ試合なんて無理だぜ。」
美咲にこう罵られて虚勢を張った。
「はははは!何を言っているのかな、美咲ちゃん。このオレ様がこれぐらいで音をあげる訳がなかろう!!これぐらい屁でもないぜ!」
「肩で息してるくせに。」
「してねえ!」
ムキになって否定する神田だが、実際ランニングだけでバテてしまっていた。いや、神田に限らず元からいた部員達も満足に練習をしていなかったため、いくらか疲れた感じだった。
ピンピンしているのは、美咲と明彦と荻原ぐらいなものだ。
「…ったくよー。美咲のヤツもずっと帰宅部だったくせになんで汗ひとつかいてね−んだ?」
と、神田は思った。水渕も同じことを考えていた。
(やっぱり、ずっと陰でトレーニングしてたんだろうな。その下積みを続けてなければあんないい球を投げられる訳がない。)
さて、このあとベースランニング、キャッチボールなどを経てノックが始まった。
まだポジションが決まっていないので、とりあえず近距離ノックと遠距離ノックを全員両方行なわせた。
「へへー。こーゆー時、キャッチャーはいいよな。返球を受けるだけなんだから。」
と喜ぶ神田。
「いや、あとでお前にも特別メニューで受けてもらうぞ。」
「うえー!?そりゃねーぜ、ブッチィ〜!!」
「ははははは!!」
神田が入った事でどうなるかと思ったが、意外にもチームが明るくなり、いい方向へと向かったようだった。
ノックを繰り返していくうちに水渕は意外に思い始めた。そう、みんな思っていたより上手いのだ。ノックされた球を拾って返球するこの動きが全員スムーズなのだ。
「ほお。これはなかなか…。守備はみんな上手いじゃないか。」
「はは。人数がいなかったんで、ノックぐらいしかすることがなかったですから。」
と副主将の甲斐が答える。
「いや、それにしてもみんな上手いよ。これは驚きだ。」
そこで、近藤という部員が答えた。
「だって、先生のノックは主将のに比べて優しいですから。」
「は?」
荻原のノックは別名“根性ノック”と呼ばれており、超近距離でフルスイングするらしい。
「………よくケガ人が出なかったな…。ひょっとして部員が少ないのはそれが原因じゃ…。」
しかし、このノックで水渕は大きな手応えを感じ、これから目指すチーム作りの方針が固まってきた。
(夏の大会まで時間がない。いまさら打撃に取り組む時間はない。となると、ピッチャーの美咲を中心とした守りで勝っていくしかない。)
打撃に比べて守備走塁は練習すればした分だけ早く身についていく。美咲が超高校球ピッチャーなので、守備力をつければそれなりの戦いが出来そうだと思ったのだ。
「まあ、当面の課題は体力作りだがな。」
練習終了後、水渕が全員を集めた。
「人数が揃っていきなりだが、練習試合を組んだぞ。再来週の日曜に矢富高校とだ。」
水渕は、全員が集中を切らさないようにたくさんの練習試合を組む事にした。ひとつひとつ目の前に目標を立てることで全員の奮起を促すとともに、とにかく経験を積ませたかった。そして何より、いくつか練習試合を組む中で勝つ喜びを全員に知ってもらうという目的があった。
(たくさん組めば、そのうちひとつぐらいは勝てるだろ・・・。)
という程度の勝算しかなかったが。
「野球部に入るって言ったら、母ちゃんが泣き出しちゃってさぁ。わざわざグローブまで買ってくれたんスよ。」
「功一、お前もか。オレんとこは野球部に入部したって言ったら赤飯が出てきた。」
どうやら彼らの家庭では子供が不良からスポーツマンに変わる事を大歓迎したようだ。
「ふーん。良かったじゃねーか。オレに感謝してもらわんとな。」
恩着せがましく言う美咲。
「…てことは、そのグローブきちんと型つけてねえな。オレに貸せ。やっといてやるよ。」
「え?わざわざやってくれるの?」
「まあ、オレのも新品だから型をつけなきゃなんねえからさ、ついでだよ。」
そこに割り込んでくる神田。
「そうか、じゃあこれがオレのだ。夜はこれをオレだと思って抱いて寝るがいい。」
「テメーでやれ。」
「そんな。誰がおめーの球取ると思ってんだ。このミットが悪かったら大事なところでこぼすかもしれねーんだぞ。」
「じゃあ、オレがやってやろーか。」
と、そこに荻原が口を挟んだ。
「よけーなお世話だ。ヤローにやってもらって何が嬉しいんだよ。」
「なんだそりゃ、フツーは自分でやるもんだぞ。」
…というような感じでチーム全体がなじんできた頃、その事件は起こった。