野球部に入った明彦だったが、この人数の少なさには落胆させられた。昔はそこそこに規模はあったようだが、ここ数年はサッカー部の活躍が目覚ましく、学校側も野球部より、サッカー部のほうに力を注いでいる状態だった。
明彦を含めて、部員はわずか5名。萩原という3年生が、主将を務めており、彼だけは甲子園出場の大志を抱いているが、他は何となく暇つぶしに参加しているような感じだった。
しょせん目標のない野球部だ。練習は形こそすれど、内容はただの球遊びのようなもので、他の部活よりかなり早い時間に練習は終了した。
何しろ、この部の顧問の教師も部活には無頓着で、ほとんど顔を見せない。練習メニューも部員任せなのだ。
明彦は、また美咲がいないかどうか気になりだした。
(はは…、ばかばかしい…そんな毎日毎日来るわけないじゃないか。昨日はたまたま気が向いただけだろ……。一体僕は何を期待しているんだ。)
そう明彦が自分に言い聞かせていると、
「また、一人で練習か?」
振り返ると、あの優しげな美咲が立っていたのだ。
明彦は確かにうれしかった。だが、同時になぜこの人はこんな所に来るのかという疑問もわいてきた。
「今日もやるか?キャッチボール。」
そう言うと、明彦が答えるのも待たずにまたしてもグローブを取りに行った。
明彦は、やっぱり霧野美咲という人間が何を考えて…いや、企んでいるのか分からなかった。何しろ、教室では本当に無愛想になるのだ。いや、グランドにいない時はいつも無愛想と言っていい。今日の明彦はそんな美咲にやや警戒気味だった。
「この前はローリングソバット、今回はネリチャギ・・・・・・。」
「神田さん。何してるんですか。」
以前、美咲にやられた3人組が校舎から出てきた。
「そりゃおめー、研究だよ研究。毎回どんなやられ方をしてるか把握すれば、戦い方も見えてくんべ?」
「ああ、なるほど。まさに世の中はデータですね。」
「そーゆーこった。これからの不良はデータも使いこなせなきゃやっていけねえ。おめーらもよく肝に銘じとけ。」
相変わらずわけの分からない事を言っている。
「で、なんか分かったんスか?」
「おう、聞いて驚け。何と今までの戦い、全部キックで負けてる。」
「そう言われてみると、霧野のパンチは見た事ないっスね。」
「つまりだ。足技さえ防げば勝機があるってことだ。」
「バカにして腕を使ってないだけじゃなければの話ですけどね。」
「あんだと、てめえ。」
「ひえええええ。すいません!!」
「神田さん。あれ、霧野じゃないっスか?」
神田の目にキャッチボールをしている美咲が映った。
「おい、美咲。」
美咲は声のしたほうを振り向いた。そして、ため息ひとつ。
「また、てめえか。何の用だ。」
「何だあいつは。お前の男か。」
「そ…そんなんじゃねえよ!」
「それにしちゃずいぶん楽しそうじゃねえか。オレとは口も聞いてくれねえくせによ。気に入らねえな。」
暴力恐怖症の明彦は、神田の乱入にどうしていいか分からずオロオロしていた。明らかに神田は彼を憎悪の視線で見ている。恐怖で立ちすくんでしまった。
「ぐほっ…!!」
その刹那、神田がうめいて崩れ落ちた。美咲が彼の股間を思いきり蹴り上げたのだ。
「み・・さき……てめ・・・・・・・・・。」
「だ、…大丈夫っスか…、神田さん・・・・・・・・・。」
他の二人は笑いを必死でこらえている。
「冷めちまった。帰るぞ立花。」
「あ…、うん。」
あわてて片付けを始める明彦。今日は美咲は明彦を待った。先に帰ったら、一人残された明彦が神田に何をされるか分からないからだ。
「お、覚えてろよ、美咲!」
ありきたりの捨てぜりふを残して逃げる三人。これで対神田戦12連勝である。
着替えを終えた明彦と美咲、二人並んでの帰り道。明彦が女の子と一緒に帰るのは小学生の通学団以来である。何となく萎縮してしまい、その上美咲は何も話し掛けてこないものだから、気まずい沈黙が続いてしまった。何か話そうと思い、明彦は昼間の話題について触れることにした。
「辻間東校の沖田君ってすごいね。1年でレギュラーとって、甲子園だもんね。同級生だと思うと、憧れちゃうな。彼って、霧野さんの幼なじみなんだって?」
美咲は視線をこちらに向けずこう答えた。明彦がまったく予想もしない返事だった。
「甲子園の話はするな。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
明彦にとって、美咲は謎だらけの女の子だったが、どうやら野球が好きらしいという事だけは確かだと思っていた。その彼女に合わせようと思って、甲子園の話をしたのだが、逆に機嫌を損ねてしまった。ますます美咲という娘が分からなくなった。
その後、二人は会話もなく歩きつづけた。そして、辻間東高校の前を横切ったその時、東校の野球部員達がちょうど校門から出てきた。
「…立花、行くぞ。」
美咲はそう明彦に促して、歩くスピードを極端に速めた。何が何だかわからないが、明彦も美咲についていく。美咲はここを一刻も早く通り過ぎたいようであった。
しかし。
「美咲?美咲じゃないか!?」
野球部員達の中から一人、こちらに向かって駆け寄ってくる。その人物の顔は、明彦も知っていた。昨年、1年でありながらレギュラーの座を獲得し、甲子園で2打席連続アーチを放った男だ。
「美咲!」
幼なじみの顔は懐かしさであふれている。やっと会えたという感じだった。
しかし、振り向いた美咲の表情は、懐かしさどころか会ってしまったという感じの表情だった。
「晃司・・・・・・・・・。」
「美咲、久しぶりだな。中学のとき以来じゃないか。」
「・・・・・・・・・。」
美咲は答えなかった。視線を合わせるのを避けているようだった。その様子に美咲の幼なじみ、沖田晃司も不可解そうだった。
「ど…どうかしたのか?」
「別に…。」
「・・・・・・・・・。」
晃司も、どうやら美咲が自分と話をしたがってないようだと感じていた。しかし、ここで何か話さないとどんどん美咲と疎遠になっていくような不安にかられた。
「前の甲子園は悔しかったよ。もう少しだったんだけどな。でも次は絶対に優勝して見せる。」
晃司はわざと明るい大きな声で言った。だが、それでも美咲は自分と視線を合わせてくれなかった。美咲のそんな態度にだんだん晃司はイライラしてきた。
晃司は美咲の両肩をつかんで無理やり自分のほうを向かせた。
「何すんだよ!離せよ!!」
「美咲!お前、何でウチ(東校)を受けなかった!お前もこの学校に来れば、オレはお前を甲子園に連れていってやることが出来たのに!!何でだ!何でオレを避けてるんだ!!」
「・・・・・・・・・。」
「言うんだ。何でだよ。オレ達ずっと一緒だったじゃないか。お前が、うちで女子マネになれば、一緒にベンチにも入れた。一緒に戦う事ができたじゃないか……。」
「離せ。」
美咲は晃司の手を振り切った。
「美咲・・・・・・・・・。」
悲しそうな顔の晃司。
「オレは………。」
美咲は何か言いかけた。しかし、声にならなかった。晃司の顔を見るのもつらかった。
「美咲!」
「オレの事はもうほっとけ!!」
そう言い捨てて走り去る美咲。あわてて明彦もその後を追った。
「美咲!オレは…、オレは、お前のためにも今度こそ甲子園で優勝するぞ!応援しててくれ!!」
後ろから晃司の叫び声が聞こえた。
走り去る美咲の後姿を見ながら、晃司は思った。
(美咲…何故だ。……なぜお前は、オレについて来てくれない………。何でオレの夢を支えてくれないんだ!)
どれだけ走っただろうか。ランニングは慣れているはずの明彦もさすがに息が上がっていた。しかし美咲は息が乱れていなかった。
「霧野さん・・・・・・・・・。」
あの二人の間に何があったのか。晃司の話振りを聞いていると、美咲が学校で言っていた“自分なんか相手してくれない”というのは嘘のようだ。美咲の方が晃司に会うのを避けているのだ。
明彦は沖田とのことが気になって仕方がなかった。彼が美咲とどういう関係なのか。ただの幼なじみという事ではなさそうなのだ。
明彦は今まで女性に免疫がない。それが、会って2日しか経ってないとはいえ、キャッチボールをしたり、今現在も一緒に下校しているのだ。美咲の事を意識していないはずがなかった。
美咲が苦しんでいるように見えた。何とか相談に乗りたいとも思った。でも、そこまで深く立ち入るのは美咲に悪いようにも思えて、明彦は何も言えずにいた。
「霧野さん・・・・・・・・・。」
明彦はもう一度美咲の名を呼んだ。すると美咲のほうから切り出してきた。
「はは…、…なんか、みっともねえトコ見せちまったな…。」
美咲の声には自嘲の響きがあった。
「オレさ…、小学生のときはリトルで野球やってたんだ。」
「・・・・・・・・・。」
「これでも結構名の知れたピッチャーだったんだぜ。全国大会でも優勝して、最優秀選手にも選ばれたしな。」
明彦の顔を見て、さらにまくし立てた。
「あ、信じてねえな!?証拠に賞状もトロフィーも盾もあるんだぞ。何なら見せてやろうか。ちゃんとオレの名前が入ってるんだから。」
「いや、そんな!信じるよ、信じますって!!」
「ホントかなあ〜〜〜?」
努めて明るい声で話す美咲。それがカラ元気である事は明彦にも分かっている。
「じゃあ、さっきの人は…。」
「ああ。オレとあいつはバッテリーだった。天才バッテリーだってちやほやされたもんさ。」
懐かしそうに、そしてわざと威張って話す美咲。
「それでさ。あいつと約束したんだ。聞いたら笑うかもしんねえけど。一緒の学校進んで、一緒に野球部に入って、そして、一緒に甲子園行って、そんで優勝して。それから、最後は一緒にプロに行こうって。甲子園行けばプロになれると思ってたから。」
明彦は、黙って聞いていた。そして、美咲の超人的能力の秘密も理解した。彼女もまた、自分が目指そうとしているのと同じ道を歩いてきていたのだ。
「・・・・・・・・・でも、オレはあいつとの約束を守れなくなっちまった。」
美咲の声の調子が低くなった。
「バカだよな。女が甲子園に出られるわけねえじゃねーか。中学の野球部にも入れなかったし。ちょっと考えればすぐに分かる事だったんだよ。」
「それで…顔が合わせられなかったんだね…。」
「あいつは自分の夢に向かって確実に階段を上ってる。でも、オレはそのスタートラインに立つことさえ出来ないんだ。」
「それでもあいつはオレを甲子園に連れて行ってやるって言ってくれる……。でもな……。」
「・・・・・・・・・。」
「それがオレは嫌なんだよ!オレはベンチじゃない、マウンドに立ちたいんだ!あいつがオレに気を使ってくれればくれるほど、どんどんオレがみじめになっていくんだよ!!」
美咲は今にも泣き出しそうだった。明彦も聞いていて胸が詰まる思いがしてきた。
「でも、もっと嫌なのは、そんな自分のプライドのために、あいつの気持ちを踏みにじって、あいつの活躍を素直に応援してやれないオレ自身なんだけどな…。」
「……最低だよ…。……オレは…。」
「そんなことない!!」
明彦は思わず美咲に向かった叫んだ。自分でもびっくりしたぐらいだった。さすがの美咲も目を丸くした。
「そんなことないよ。霧野さんは、その約束を大切に思っているからこそ…、中途半端な形で妥協したくないんでしょ?確かにあの高校に行けば沖田君が甲子園に連れて行ってくれる。でも、霧野さんにとっては、自分の力で甲子園で優勝しなくちゃ約束を果たした事にならない。……えっと……うまく言えないけど、霧野さんがその約束で一番こだわってるのは、甲子園に行く事じゃなくて………その……ああ、もう!何て言えばいいんだろう……!」
明彦の必死さに、思わず美咲は吹き出してしまった。
「……もういいよ。へんなヤツだな、お前。自分の事でもないのに。」
明彦の言いたい事は何となく分かった気がした。
美咲はそれきりずっと考え込んでいた。明彦と別れて家に帰りついてからも。
自分はどうすべきなのか。
どうすれば自分も晃司も納得のいく形の答えを見つけ出せるのか。
これまでは、野球から逃げる事で自分の心を押さえつけてきた。しかし、明彦とキャッチボールをしたり、今日晃司に再び出会った事で、美咲の心はまた揺れてきていた。
今までやってきた事は正しかったのか。行き止まりだと決めつけて切り開かなかった道があったのではないか。
そうだとしたら、回り道を進んでしまった今からでも、また目的地に近づく事は出来ないのか。
ひたすら美咲は自問自答を繰り返した。
(オレは何でこんなに悩まなくちゃいけないんだ。)
(そんなの決まってる。自分の気持ちに正直にならなかったからだ。)
(自分の気持ちに……?どういう事だ。)
(お前が自分で納得のいく道を進まなかったからだ。)
(そんな事はない。オレは必要だと思って、晃司と別の学校を選んだ。)
(それは本当に必要だったのか?)
(…………。じゃあ、オレはあいつと同じ学校に入って、あいつの追っかけになれば良かったって言うのか。)
(それでお前は満足するのか?)
(満足するんだったら、あいつと同じ学校に行ってる!!)
(じゃあ聞くぞ。お前は今一番何がしたいんだ。お前の夢は何だ。)
(オレの夢?そんなの決まってる。晃司と一緒に甲子園に行って、プロになる事だ。)
(じゃあ、これからの道は決まった。後は行動あるのみだ。)
(オレに何をしろって言うんだ!)
(お前は野球がしたいんだろう。)
「あっ…!!」
その瞬間、美咲は自分を中学の頃から縛り付けていた呪縛から解き放たれた気がした。
心は晴れ晴れとしていた。