seen2 キャッチボール

 

 放課後。

 美咲はぺったんこのかばんを持って、夕焼けの校舎を背に帰路につくところだった。

 本当は、もっと早く帰るつもりだったが、ゲタ箱に後輩の女の子からのラブレターが入っていて、その娘の交際の申し込みを断るのに手こずってしまったのだ。

「朝は、バカの決闘の申し込み、帰りは同性からの告白…。なんて一日だ。」

 さすがの美咲もげんなりしていた。

 その時、見慣れた…というわけではないが、何となく見覚えのある男子が目に入った。

 彼は、壁当てを繰り返していた。グランドには、彼以外野球部員らしい生徒はいない。また、他の部の生徒たちも、練習を切り上げて、後片付けに入っており、グランドは閑散とし始めていた。

 その男子生徒は、たしかに美咲は見覚えがあった。今日は彼のおかげで、美咲は遅刻を見つかってしまったのだ。というよりも、美咲がそう思いこんでいた。特に美咲は何を思いついたわけでもなく、自然と彼の近くに歩いていった。

「よう。結局、野球部に入ったのか。」

「あ、霧野さん。」

 明彦は、壁当てをやめて美咲の方を向いた。やや緊張気味だ。

「あれだけやめとけって言ってやったのに。」

「あ…うん。でも、…やっぱり、野球がやりたかったから…。」

 明彦はしどろもどろで答えた。美咲の言うことを無視したので、ばつが悪かった。それに、明彦は今まで女子と面と向かって二人きりで話をしたことがない。そのため、なんとなく気恥ずかしかった。

「そうか…。」

 美咲は普段から想像できないぐらい柔らかい口調で言った。明彦が顔を見上げると、美咲は微笑んでいた。明彦は顔が赤くなったのを自分でも感じたが、夕暮れだったので、美咲はそれに気づかなかった。

「自分の好きな事をやる。別にいいんじゃねえの?試合は出来ねーだろーけどさ。」

 そう言って、美咲は転がっていたボールを拾い上げた。

「キャッチボールしねえか?壁よりは練習になると思うぜ。」

 明彦はしばらく返事できなかった。自分に対してまったく興味を持ってなさそうだった美咲が、突然こう言ってきたのだから当然と言えば当然だった。しかし、当の美咲は、明彦の返事を待つことなく、さっさとグローブを取りに行ってしまった。

 明彦はドキドキしていた。彼女いない歴16年、まともに女のことしゃべった事もない自分が、いま女の子とキャッチボールをしようとしているのだ。そりゃ、緊張するよね。しないでか。それと同時に、なぜ急に美咲がこんなに打ちとけたのか理解できなかった。

 からかっているんだろうかとも思った。しかし、さっきの微笑みの中にそんな意地悪さが潜んでいるとはとても思えなかった。そんな事を考えているうちに美咲がグローブをつけて戻ってきた。

「あ、霧野さんって左利きなんだ。」

「野球はな。ハシとか、鉛筆とかは右だぜ。」

 まるで、野球選手のような口ぶりだ。明彦は苦笑した。

「じゃ、やろうぜ。」

 美咲はそう言って、キャッチボールをするため距離をとり始めた。

 明彦はその間ちょっと考え込んだ。

(やっぱり全力投球するのはまずいだろうなあ。でも、あんまり弱い球を投げて、バカにしてると思われるのもダメだし。せっかく仲良くなれそうなんだから、怒らせるような事はしたくないなあ………。)

 そんな事を考えていたら、向こうから美咲が叫んだ。

「おーい。いいぞー。」

 我にかえって、美咲のほうを振り返った明彦。しかし、また驚かされる羽目になった。

 美咲は自分が想像していたよりはるかに遠くに立っていたのである。これは、前にいた学校でチームメイトとキャッチボールをしたときの距離よりもさらに離れていた。

「え…?こんなに…距離とって大丈夫なの……?」

 明彦はそう思ったが、まあいいかと思いなおした。遠ければ徐々に距離を近づければ良いだけだ。むしろ、これだけ距離があれば下手に力を加減する必要もないので、かえって投げやすい。

 明彦は、美咲に向かってボールを投げた。自分では、ワンバウンドがツーバウンドで、届くぐらいの力で投げたつもりだった。だが、やはり女の子の前だからちょっといい所を見せたいという気持ちが働いたのだろう。思ったより強い球を投げてしまった。投げた球はノーバウンドで、美咲の真正面に飛んでいった。

「しまった!」

 ケガさせたかもしれないと明彦が思った直後信じられない光景が広がった。

バシィン!

 美咲は何事もなかったように、ごく簡単にその球を取ったのだ。

「なかなかいいタマ投げるじゃねーか。前の学校でも野球やってたんだな。」

 明彦の驚きに気づく事もなく、美咲は明彦にボールを投げ返した。そして、その返球が明彦を最も驚かせた。

 明彦は、自分のところまで届くかどうかだと思っていた。しかし、美咲の投げたボールは、空気を切る音とともに、山なりどころか、ほぼ水平にものすごいスピードですっ飛んできたのだ。いや、空気を切るどころじゃない、そのボールの勢いは、ボールが悲鳴をあげているかのようだった。しかも手元で勢いをさらに強めたようにさえ見えた。

 明彦は慌ててボールをキャッチした。

スパァーーーーン!!

 乾いた音が響く。明彦は身体全体を後ろに押されるような錯覚に陥った。そして、手にものすごい衝撃を感じた。そして、キャッチしたあともしばらくボールが回転しているかのようだった。

「……………!!」

 明彦は硬直した。

(何なんだこの球は………!!)

 手に残る強いしびれ、いまだに耳に残るボールの悲鳴、そしてまださっきのボールの軌跡の残像が脳裏に映っていた。

(こ…こんなすごい回転のタマ……見た事がない………。)

 呆然と立ち尽くす明彦を怪訝に思ったのか、美咲が声をかける。

「おい、どうしたんだよ。おめーも投げてくんねえとキャッチボールにならね−ぞ。」

「あ!ゴ…ゴメン…!!」

 その声にハッとして、あわてて美咲にボールを投げ返した。

 キャッチボールは日が沈む頃まで続いた。

 

「はは、楽しかったぜ、立花。悪り−けど片付け頼むな。」

そう言って、美咲はさっさと帰ってしまった。

「あ……!」

 明彦としては聞きたい事がたくさんあった。特に、何故あんなものすごい球を投げられるのか。

 彼がここに来る前の学校の野球部は東京の名門校だったが、こんな力のあるボールを投げられる選手は一人もいなかった。それも、今彼がキャッチボールをした相手は、身体は大きいが確かに女の子だった。だが、彼女の投げたボールは、どんなすごい高校球児でも真似が出来ないような代物だったのだ。明彦は、まだ手に残るボールの感触を忘れる事が出来なかった。

 

 翌日。

 謎のキャッチボール少女・霧野美咲、これが立花明彦の彼女への第一印象である。

 今日教室で、昨日の事について聞こうと彼は思っていた。今日は、美咲は遅刻せず学校に来ていた。昨日の美咲の姿を思い出しながら、明彦は彼女に声をかけた。美咲は昨日のような表情を見せてくれると思っていた。

「おはよう、霧野さん。」

「・・・・・・・・・オス・・・・・・・・・。」

 しかし、今目の前にいる美咲に昨日の夕方のような優しげな面影はなく、無愛想な普段の美咲に戻っていた。

「・・・・・・・・・。」

 一瞬、同一人物か疑ってしまった。

「き…昨日のキャッチボール…楽しかったね。」

 恐る恐る話を進めてみる。

「……。ああ…。」

 返事はする。だが、いかにも面倒くさそうな感じだ。とてもこれ以上話し掛けられそうにない。

(て……低血圧なのかなあ・・・・・・・・・。)

 そう思わざるをえなかった。

 しかし、彼女の態度は時間がたっても変わる事はなかった。

 

 

 昼休み、美咲の周りに女生徒が数人集まってきた。

「ねえねえ、美咲。沖田君、今度こそ甲子園優勝できるよね!」

「……そうだな。」

 相変わらず無愛想。

「今度地区予選、授業サボって応援に行こうよ。」

「オレは遠慮しとく。」

「美咲、沖田君と幼なじみでしょう?あたし達のこと紹介してよ。」

 この言葉には、近くにいた明彦も反応した。

 沖田晃司という名前は明彦も聞き覚えがある。春の選抜で、1年生にもかかわらず、レギュラーの座を取り、甲子園で2打席連続ホームランを打った天才打者だ。

 同い年ながら、彼は雲の上の存在だった。その沖田と、美咲が幼なじみだと言う。そして、昨日見せた美咲の強肩。何か結びついているような気がしてならなかった。

 あまりこの話題に興味はなかったが、気になって仕方がなくなってきた。

「あいつはオレと違って忙しいからな。オレなんか取り合ってもくんねーよ。」

 口惜しそうにも聞こえる美咲の声。

「また〜、ウソばっかり。でも、沖田君が忙しいのは本当だろうね。マスコミがべったりくっついてさ。プロ入り間違いなしだって。」

「ああ、あいつなら…大丈夫だろ…。」

 そう答えた美咲がひどく寂しそうな顔をしたのを明彦は見逃さなかった。

「・・・・・・・・・霧野さん…?」

(幼なじみがプロ入り間違いなしっていうのに、何であんなに寂しそうなんだろう。)

 明彦は、美咲が沖田に幼なじみ以上の感情を持っていて、その沖田が遠いところへ行ってしまう事に対して寂しさを感じているのだと解釈した。明彦は美咲に好意を抱き始めていたので、そう考えると何となく面白くない気持ちになった。

 

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