戦国質問箱
9.聖将謙信の心の傷
 なにやら意味深なタイトルをつけてしまいましたが、ここでは別に謙信公のトラウマを暴露するんじゃなくて、清く正しく生きていきたいという目標を持ちながら、国主であるがゆえに避ける事が出来なかった政治の世界での葛藤にスポットを当てます。

 謙信としては、思い出すのも嫌な事だろうから心の傷とつけました。理想と現実の狭間で苦しんだであろう2つの事件をテーマに上げます。

 一つ目は長尾政景暗殺疑惑です。長尾政景は謙信の従兄にあたります。

 事件の概要としては、宇佐美定満と長尾政景の二人が野尻湖で舟遊び中舟が転覆して二人とも水死したのです。これならただの事故と考えられますが、二人の遺体には明らかに刀で斬り合った跡があったといいます。更にこの二人は謙信の国内統一戦の頃から仲が悪かったと言われており、これはただの事故ではなかろうという話になってきたわけです。

 この事件、さまざまな憶測がされていますが、中でも強い意見なのが、謙信が宇佐美に命じて政景を暗殺させた、というものです。「天と地と」の作者海音寺潮五郎氏も、「天と地と」は第4回川中島合戦で話が終わっているものの、初めは謙信が死ぬところまで書く予定だったらしく、この事件についても宇佐美定行(宇佐美定満を脚色美化した人物)の単独犯として書くつもりだったらしいです。

 図書館で調べた本に、この事件の直前に宇佐美が斎藤朝信と密議をしていたという記事もありました。また、この直後に謙信が宇佐美家を追放しているのが、かえって疑わしいというのが謙信黒幕説の主張です。

 謙信女性説でおなじみの八切さんは「武田信玄黒幕説」を挙げました。まあ、この説は「謙信女性説」と違って、小説向けの意見なのでただの推測ですが。

 この説では、武田の家来である真田氏が暗躍して、舟遊び中の政景と定満を暗殺したとあります。うまく政景に取入って、定満を暗殺する計画を政景に伝え、定満と仲の悪い政景はそれを了承します。この後は上手い具合に謙信から国主の座を奪ってしまうところまでしっかり計画を立てているのですが、それを説明するにはスペースが少なすぎるので省略します。

 しかし、真田は政景の国主奪取には興味がなく、はじめからこの時に定満もろとも政景も殺すつもりでした。政景は味方だと思っていた真田に殺されるピエロを演じる羽目になります。こうして、謙信の軍師の宇佐美と、謙信の部下で最も力のあった上田衆を率いる政景を両方取り除いて信玄が喜ぶという話です。

 もちろんこれは創作だと思います。宇佐美は謙信にそれほど高く召抱えられていません(軍師になっているのは小説の中だけ)。証拠に、謙信黒幕説では捨て石に使われています。政景にいたっては、謙信が暗殺したのでは?と言われるほど、謙信にとって邪魔な人物だったはずです。政景が居なくなれば、反乱分子は居なくなる上、強力な上田衆が謙信の直轄になる事で、結果としては謙信が強くなり、信玄にとっては都合が悪くなるからです。

 「武神の階」を執筆された津本陽氏は、全く違う見解をしています。まず、政景は野尻湖で死んだとありますが、実際に死んだ場所は野尻池です。また、この事件は「北越軍記」による創作で、宇佐美定行という架空人物がこの事件で政景を殺したのであって、そのモデルである宇佐美定満は関係がないという事であります。という事は、宇佐美定満が死んだというのも宇佐美家追放もなくなるわけです。「北越軍記」は宇佐美氏の子孫である宇佐美定祐の作で、かなり作り話も入っているので、その可能性は高いです。

 政景と同乗していた国分彦五郎という人物の母が、1635年にこの世を去る前に見聞を語っており、それを記録した「国分威胤見聞禄」にこの事件の詳細が書かれています。

 この女性は夫と上州の前線にいたのですが、墓参りに上田に戻り彦五郎の屋敷に到着したところ彦五郎が喧嘩で殺されたと通報を受けます。それで、彼の屍骸を引き取ろうと野尻池に向かったところ、その死体は彦五郎でなく長尾政景であったといいます。政景はこの喧嘩で殺されたという話が、謙信から権力を奪おうとして、その前に宇佐美に殺されたという話にすり変えられたとの事です。

 津山氏の説が一番妥当な気もします。それにこの説なら、何も謙信は後ろめたくないし(^^)。

 もうひとつの事件は、謙信の柿崎景家殺害です。

 この事件は、謙信と信長の仲が険悪になった頃に発生しました。この時信長は表面上は謙信にへりくだりながらも、水面下では謙信の切り崩しを試みていました。そこで、越後一の猛将と名高い柿崎景家に目をつけます。信長は景家に、「そちらの馬は大変良質であり気に入った。今度また数頭ばかり送ってきてほしい。」と書いた手紙を渡します。景家はこの手紙を受け取りますが、景家は信長に馬など送った覚えはありません。

 これは、景家宛ての信長からの内応の誘いだったか、それとも謙信と景家の仲を裂くための離間の策だったかは分かりませんが、景家は謙信を裏切る気はさらさら無かったので、この手紙が見つかって謙信に疑われるのを恐れました。そして、謙信に知られないうちにこの手紙を処分してしまったのです。

 しかし、これがまずかった。軒猿忍群を抱える謙信の情報網にこの事が引っ掛からない筈がありませんでした。景家が「信長めからこのような手紙が届きました。」と謙信に報告していれば、「小賢しい細工をしおるわ。」と謙信も笑い飛ばしてこの件は済んだ筈でしたが、景家はこれを隠してしまったので、かえってこれが謙信に柿崎に叛意ありと思わせてしまいました。

 結局柿崎城は謙信に攻められ、景家とその子晴家は殺されてしまいました。結果として信長の計略に引っかかって大事な強い忠臣を失ってしまった事になります。さぞ信長は喜んだ事でしょう。その後、春日山城に無実を訴える柿崎景家の亡霊が出没したと言われています。謙信はそれを見て倒れたのだとも噂されました。

 これがこの事件の通説ですが、フォローを入れておきたいと思います。

 この件で殺されたとされている柿崎景家は、実際はこの事件の起こった以前の1574年にすでにこの世を去っていました。つまり、上の文で柿崎景家とされている人物は、実際は景家の子の晴家という事です。まあ、謙信が柿崎家を取り潰してしまった事には変わりはないんですけど。

 まあ、謙信は功臣・柿崎景家を殺してはいない、という事だけでも、謙信ファン、景家ファンにとっては、ほっと胸を撫で下ろせるのではないでしょうか?

 ここで謙信に取り潰された柿崎家ですが、晴家の子の憲家が上杉景勝の下で大活躍し、見事お家再興を果たしています。

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