戦国質問箱 | |
7.謙信を頼った人達の末路は? | |
渡る世間は鬼ばかりの戦国の世の中で義理人情に厚く、権謀を嫌い、それでいて強く寛容な上杉謙信という人物は同じ時代を生きた弱小大名たちにとってはオアシスとも言うべき存在でありましょう。それだけに謙信を頼った人物というのは多く、極論を言ってしまうと武田信玄や北条氏康、織田信長でさえこの中に入ってしまうので、それだけで人名辞典が作れてしまうほどです。 この項では、特に謙信に依存した5人の人物にスポットを当ててみたいと思います。 先に名前を挙げてしまうと、信濃の豪族村上義清と小笠原長時、関東管領上杉憲政、時の関白近衛前嗣(このえさきつぐ)、そして室町幕府13代将軍足利義輝であります。 まず、この中で真っ先に謙信を頼ったのは小笠原長時。村上義清が上田原の合戦で武田軍を破った時、彼は信玄(当時は晴信)が敗戦のダメージを回復する前に武田に奪われた領土を奪回しようと図ります。しかし相手はかの戦国一の名将信玄。そううまくは行きません。この期とばかりに信玄に徹底的に叩かれ信濃から越後に亡命します。 彼はその後京へ行きます。おそらく謙信の二度の上京のうちのどちらかに付いて行ったのではないでしょうか。そこで剣術の師範役となります。しかしその後織田信長が京を制圧すると越後へ帰還したとの事です。ある説によると、その後家臣の裏切りに遭い殺されたとあり、また別の説によると芦名氏の客将となり会津の地で生涯を終えたとあります。その子供の代で徳川家康の助けを受け旧領を回復したとあります。 同じく信濃の豪族村上義清は二度にわたってゲリラ戦術などで武田軍を破りますが真田の裏切りもありついに持ちこたえられず謙信(当時は景虎)を頼って越後へ亡命します。謙信は彼を温かく迎え、信玄と戦うという事は周知の事実であります。 この義清、強いだけでなく心も優しい人だったらしく、川中島の合戦で大量の死者が出てその戦死者の家族が嘆いているのを見て「私が越後に逃げ込まなければこんな事にはならなかった。政虎(謙信)殿、どうか私の為にこれ以上越後の民を戦場に借りたてるのはお止め下され。かくなる上は、出家し残りの生涯をかけて戦死者の霊を弔いたいと存じます。」と進言し、謙信に「そなたのためだけに戦うのではない。そなた一人だけの為にこんな戦いを繰り返していると思っているのか。なぜこの私の気持ちが分からぬのじゃ。」とたしなめられ励まされるというエピソードがあります。 村上義清は川中島の合戦では常に先陣で活躍しました。そして、偶然か信玄と同じ1573年にこの世を去っています。義清には国清という子供がいて、彼は山浦姓を継ぎ、謙信のあとを継いだ景勝が会津に転封された時も付き従います。 関東管領上杉憲政は、北条氏康に敗れ、まず佐竹義昭の許へ亡命します。しかし、自分の跡を継いで関東管領となり北条を討ってほしいという頼みを断られ越後へ亡命する事になります。その後謙信が関東管領となり北条と戦ったのは言うまでもありません。 もともと上杉謙信こと長尾景虎の長尾氏は関東管領上杉氏の執事をしていましたが、謙信の父長尾為景は2話目で書いたように二度の主君殺しをしており、上杉氏と長尾氏の関係は険悪な物となっていました。そのため憲政はいきなり越後に行かず常陸の佐竹を頼ったのです。憲政も謙信が誠実な人物とは聞いていたでしょうが、自分の父の仇の子供を頼ったというのはよほど追い詰められていたのでしょう。 この憲政は謙信の死後、御館の乱で上杉景虎方に属したため上杉景勝に殺されてしまいます。 続いて近衛前嗣は当時の関白であります。また将軍足利義輝の義理の兄にも当たります。彼は謙信が上京してきた時すぐに謙信を気に入ります。確かに当時朝廷をみんながないがしろにしているご時世にたくさんの引き出物を持ってきて心から朝廷に心服している、それでいて無敵の強さを誇る謙信は非常に可愛く思えたであろうし、また利用するにはこれ以上の手駒もいない訳です。 彼は関白という身分であるにもかかわらず、謙信の帰国に付いていってしまいます。ものすごい行動力ですよね。謙信とはある約束をしていました。謙信が北条を討ち関東を平定した後には前嗣を関東公方にするというものです。しかし、小田原城は想像以上に堅く結局関東平定はなりませんでした。 こうなるとわがままな貴族である近衛前嗣は謙信を無能呼ばわりし、また、越後や関東の諸将が前嗣を嫌っていた事、東国の環境が合わなかった事などから、謙信が引き止めるのも聞かず京へ帰って行きます。その後は織田信長などに取入ったそうですが、謙信のようにもてなしてくれる訳がありませんでした。きっと後悔した事でしょう。 最後は13代将軍足利義輝です。彼は剣豪将軍と呼ばれるほどの剣の達人であり、また頭も良かったといわれています。もし、こんな時代でなかったら、名君として歴史の教科書にもっと重要人物として名を残したかもしれません。 彼は、三好長慶、松永久秀らに勢力を圧迫され京を追い出された事もあります。そこで目をつけたのが最近力を急速につけてきた長尾景虎と武田晴信でした。彼はちょうどその時川中島で戦っていた二人に和睦するよう働きかけ二人に上京するよう命じますが、晴信は景虎と違いリアリストですから、命令に応じるどころかうまく交渉して上京せず信濃守護職まで手に入れます。 一方の景虎は、素直に上京し、義輝を感激させます。義輝は景虎以外にも信長と会っていますが、義輝は信長の野心を見抜いたのかそれともまだ小大名だったからか、信長を頼ろうとはしませんでした。弟・15代将軍足利義昭は信長を頼って最終的にその信長に幕府を滅ぼされたのは言うまでもありません。 義輝は謙信を大変気に入り、関白近衛前嗣にも紹介し、さらに天皇にも拝謁させます。それだけでなく、義輝は大友宗麟から贈られた鉄砲の作り方などを記した巻物を謙信にプレゼントしてしまうのです。これは義輝がいかに謙信を信頼していたかの何よりもの証明です。 義輝といい、前嗣といいこれだけ謙信を気に入っていた事もひょっとしたら謙信女性説の根拠になっているのかもしれません(笑)。 まあ、冗談はおいといて。 この後義輝は松永久秀に攻められ、剣豪将軍に恥じない奮戦をした後自害してしまいます。義輝はこの直前、身の危険を察知して越後へ亡命しようとしていたそうです。そんなバカなと思うかもしれませんが足利義昭は実際京から遠く離れた毛利輝元のもとに身を寄せています。ありえない話ではありません。何しろ彼は他の誰よりも謙信を信頼していたし、当時謙信以上の誠実さと強さを兼ね備えた武将はいなかった訳ですから。 調べたところによると若狭湾に越後の直江津へと渡る船も用意していたとの事で、松永久秀は謙信を内心では恐れていましたので、義輝を御輿に据えて謙信に上京されてはたまらないと思って慌てて義輝を殺害したのではないでしょうか。これまででも、足利将軍家の勢力を考えればいつだって義輝を殺す事は可能だったにもかかわらず殺さずにいたのにここに来て急に事を起こしたわけですから。義輝の陰謀を知って慌てて義輝を殺したと考えられます。 この5人全員の目標を叶えてあげられなかったのは謙信にとっては大変残念だったでしょうね。 |