戦国質問箱

2.謙信の家族について

 謙信の父は、長尾為景といい、100回以上の合戦を行なったまさに闘神と言うべき猛将でした。謙信が生涯の合戦の回数が70回程度と言うからこれはものすごい数と言えます。

 この為景は清廉な謙信の父とは思えないほど、目標達成のためには手段を選ばないドライな人物でした。二度も自分の主君を殺し、自分の勢力を拡大しています。それだけに敵も多く、この為景が死んだときまだ7歳だった虎千代(謙信)は、武装して葬式に参列しなければならなかったといいます。つまり、それぐらいいつ敵に襲われてもおかしくなかった訳ですね。この為景は病死とも戦死とも言われていますが、病死のセンが有力です。「天と地と」では、一向一揆との戦いで戦死した事になっていますが、一向一揆との戦いで死んだのは謙信の祖父の能景なので、為景はそれとシンクロさせたのではないかと思います。

 さて、為景の死後越後守護代の座についたのは、謙信の19も年上の兄晴景です。彼は父為景に似ず、臆病でまた病弱であったと言われています。また、彼と謙信の間には景康と景房という二人の兄弟がいたそうですが(二人を抜いて謙信が次男、あるいは景康を抜いて三男とする説もある)、この二人は晴景が為景の跡を継いだ直後、反対勢力に春日山城を攻め落とされた際に、晴景を逃がすために討ち死にしたようです。

 この後、晴景は春日山城は取り戻すものの政務に無頓着になり、成長した景虎(謙信)に取って代わられることになります。まあ、謙信に立派な屋敷を立ててもらって面倒な政治を謙信にみんな任せて酒ばっかり飲んでいたらしいですから、結構幸せな人生だったんじゃないでしょうか。

 謙信のいとこには、長尾政景と長尾景信がいました。景信については、謙信と一緒に上杉姓に改姓した事しか分かりません。勉強不足で申し訳ない。もう一人、政景はかなりの猛将で、晴景失脚後も一人謙信に抵抗していました。ここで、謙信は自分の姉仙桃院(仙洞院)を政景と結婚させる事で格好をつけ政景を降伏させます。その後政景は、上杉家臣団のリーダーとして活躍する事になります。

 その政景の子が上杉景勝です。彼は、謙信の跡を継ぎ、豊臣秀吉の五大老にまでなり、見事上杉家を守り通しました。武田や北条が滅亡した事と比べると、景勝の頑張りは実に立派だったと思います。

 謙信は景勝のほかに北条氏康の子、北条氏秀も養子にしました。彼は、謙信の昔の名前「景虎」を与えられ、景勝同様謙信に大変可愛がられました。彼はかなりの美男子で、彼が街を歩くと街中の娘達が一目見ようと行列を作ったほどです。その景虎は、謙信の死後の後継者争い(御館の乱)で、景勝に敗れ自害してしまうんです。他にも謙信の養子には上条政繁がいますが、この人もあんまり分からないので割愛します。

 長尾氏の女性ですが、謙信の母は虎御前といい、謙信が40歳ぐらいになるまで生きていましたし、姉の仙桃院は謙信の死後30年ちょっとまで生きていたので、独身貴族の謙信でしたが、そんなに寂しい人生という訳ではなかったのではないでしょうか。

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