この前の地が「尾張」と知り、急ぎ東へ踵を返した私は、なぜか時の将軍足利義輝公に招かれました。
おそらくこの辺りは駿河・・・、なぜ将軍様が駿河に居られるのかは分かりませぬが、将軍家にも私の如き下民には到底推しはかれぬ事情がおありなのでしょう。言うまでもないかと思いますが、コイツまた道に迷ってます。東進せずやや西寄りに北上してます。
さて、足利義輝公と言えば「剣豪将軍」として有名であられます。
剣の道に熱心な将軍様は上泉師匠のもとで剣の修業をした私が城下にいることを知り、招いてくださったようでした。私などが将軍様に存在を知られていたとは感激の極みでございます。
義輝公は、「世に出て評判ばかり気にしているような剣豪などはタカがしれておる。お主のように、世間体を気にすることなく、黙々と剣の道を極めんとする者にこそ教えを乞いたい。」と、大変有り難くも勿体無いお言葉を下さいました。
とはいえ、私も仇討ちの旅の途中。一刻も早く氏康を討たねばなりませぬゆえ、剣の試合を3本だけ行うことに致しました。
相手は将軍様ゆえ本気でやるのはどうかと一瞬迷いましたが、この気づかいはむしろ私の驕りであると思い知らされました。将軍様の剣は鋭く、いきなり面を1本取られてしまったのです。
上泉師匠以外に面を取られたのは初めてのことでした。さすがに剣豪将軍はお強い。
何とか残りの2本は私が取りまして、かろうじて剣豪の面子は保ちました。ぜひとも、またの機会があればお手合わせ願いたいものです。
将軍様のもとを出発してから数日後、今度は義輝公の弟の※義秋様に呼び出されました。※(のちの15代将軍足利義昭)
義秋公は「麿は剣など学びたくないでおじゃるが、この時代何があるか分からぬ。どのみち嫌な剣を学ぶなら、むさ苦しいオッサンより、おなごに教えてもらう方がマシじゃ。」と、頂いても全く嬉しくないお言葉を下さいました。
しかし、あの剣豪将軍様の弟君であらせられるわけですから、間違いなくお強うございましょう。もし不覚を取れば、新陰流の看板に傷がついてしまいます。そのため、今回は渾身の力で一本目を奪いました。
え・・・、その後ですか?義秋様は白目を剥かれ口から泡を吹き全身をピクピク痙攣させながらお倒れになられましたので、私は大慌てで国外に逃亡いたしました由。現在指名手配されているらしい。