上杉謙信小辞典【さ行】

【さ】

妻女山(さいじょさん)

 謙信が第4回川中島合戦で本陣を据えた。この位置は敵中に孤立する危険極まり無い場所であったが、有無の一戦を望む謙信はあえてこの死地を本陣とした。

斎藤朝信(さいとう・とものぶ)

 赤田城城主。猛将であり、行政手腕にも長けた上杉家屈指の名将で「越後の鐘」と恐れられた。謙信の関東管領就任式では柿崎景家と共に両脇で太刀持ちも務める。御館の乱では景勝方として活躍、刈羽郡内6ケ所を除く大澄の地を賜った。「上杉将士書上」に「小欲で生まれながらにして忠義・仁愛の心深く、士卒、百姓をいたわり万人から慕われた」とある。

斎藤信利(さいとう・のぶとし)

 謙信に服属した越中の国人。天正9年、景勝にくみして佐々成政に抵抗するが敗れ義父の三木義頼を頼る。

蔵王権現(ざおうごんげん)

 諸国に知られた霊験所。武将達は越後国の守護神として意識していたようである。

坂戸城(さかとじょう)

 長尾政景ら上田長尾氏の居城。関東と越後とをつなぐ重要ルート上にある城。「上杉景勝・直江兼続生誕の地」の石碑が建っている。

佐竹義昭(さたけ・よしあき)

 常陸国の武将。はじめ上杉憲政はこの義昭に関東管領職を譲り北条と戦わせようとしたが拒否されたため謙信を頼る。憲政の申し入れは拒否したものの、謙信の関東出兵に呼応し北条軍と戦った。

佐竹義重(さたけ・よししげ)

 佐竹義昭の子。鬼義重と呼ばれるほどの猛将で佐竹氏の最大版図を確立。上杉や武田を上手く味方にしながら北条家に対抗した。水戸城を攻略して念願の常陸統一も達成。

佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)

 義重の子。景勝を兄のように慕っていたとも言われる。家康の会津征伐でも景勝寄りの態度を示したため関ケ原合戦の後減封された。

佐渡(さど)

 現在の佐渡島。鶴子銀山や新穂金山、西三川砂金山などを中心とする佐渡黄金山と呼ばれる鉱山群があり、上杉家の財政を潤した。しかし、謙信時代には佐渡は領国化されていなかった為、佐渡の開発が本格的に進歩するのは景勝時代、さらに江戸時代の事となる。

里見義堯(さとみ・よしたか)

 「房総の狼」と呼ばれ、謙信と協力して上杉と戦う北条の背後を脅かした。謙信にとっては関東諸将の中でも特に友好関係の強力だった人物である。

里見義弘(さとみ・よしひろ)

 父・義堯と同様に謙信に味方して北条軍と戦う。太田資正と結び国府台において北条軍と戦ったが敗れた。その後謀反などもあったが、その後勢力を回復し、謙信の臼井城攻めに援軍を派遣している。謙信は領国内の無事を祈った願文を奉納したが、その中には里見義弘の安房国の安穏も祈られているという。

佐野昌綱(さの・まさつな)

 唐沢山城城主。謙信が関東へ出てくれば謙信に降伏し、謙信が越後へ帰還すれば北条へつくという具合に背反を繰り返したため、謙信は何度も唐沢山城へ軍勢を派遣しなければならなかった。

侍衆御太刀之次第(さむらいしゅうおんたちのしだい)

 2度目の上洛から帰国した謙信に祝いの太刀を贈って祝賀した武将達の名簿。

猿松(さるまつ)

 謙信の幼名は「虎千代」であるが、「猿松」と書かれているものもある。「天と地と」では、為景が虎千代を愛してなかったため憎しみを込めてこう読んでいるという設定になっているが実際の意図は定かではない。

三帰五戒(さんきごかい)

 1553年、謙信は大徳寺に参禅して衣鉢法号、三帰五戒を受け手法号を宗心とする。五戒とは殺生戒、邪淫戒、妄語戒、偸盗戒、飲酒戒を指す。

三条西家(さんじょうにしけ)

 室町時代の公家。越後青苧座の本所としての特権を持っており、その保護のもとに青苧は青苧商人の手によって京へ送られた。

三智抄(さんちしょう)

 謙信が上京した時、関白・近衛前嗣に所望した和歌集。入手は叶わなかったらしい。

山本寺景長(さんぽんじ・かげなが)

 定長の弟。御館の乱では景勝方につき兄と対立する。兄が御館の乱で討ち死にしたため、弟の景長が相続する。その後魚津城の守備にあたり、落城の際城将全員が敵にひざまづく事なく自決した。

山本寺定長(さんぽんじ・さだなが)

 不動山城城主。御館の乱では景虎方に味方したため景勝方に討たれ、景勝に味方した弟の景長が不動山城の城主を相続した。

山本寺孝長(さんぽんじ・たかなが)→山本寺景長

【し】

椎名康胤(しいな・やすたね)

 越中国新川郡守護代。謙信は康胤の要請で1560年、1562年に越中へ出陣し神保長職を降伏させたが、のち武田信玄の調略で謙信に反旗を翻した。

死因(しいん)

 謙信の死因は脳卒中であると一般に言われている。しかし、第一級歴史史料の「当代期」には「大虫」と書かれており、「大虫」は「婦人の道しゃくを起こすもの」という意味なので、更年期障害の「婦人病」で死んだという事になる。ほか、「腹痛」説や、あまりに死ぬタイミングが信長にとって都合がいいので、暗殺されたのではないかという噂も当時起こったらしいが、謙信が倒れてから死ぬまでに4日もかかっている事を考えると暗殺は考えにくい。

塩(しお)

 塩止めを受け、生きるのに必要な塩分を手に入れられなくなった信玄に、塩を送ったというエピソードがあるが、コレは作り話である。実際は、今が儲け時だと謙信が塩商人を武田領に派遣したにすぎない。しかし、法外な値段を一切吹っかけず、良心的価格で領民を救済した事も事実なので、さすが謙信と言うべきだろうか。

塩崎の対陣(しおざきのたいじん)

 第5回川中島合戦のこと。67日間に渡る長期対陣となった。八幡原の戦いで大損害を出した両軍だけに、直接的な衝突をする気はなく、結局何もせずに謙信は引きあげた。川中島の住民が武田の支配に慣れてしまっていたのも謙信が川中島奪回を諦めた原因の一つである。

塩留の太刀(しおどめのたち)

 北条氏康、今川氏真によって塩の輸送を止められた武田領に従来通り塩の販売を許した謙信に対しての感謝の気持ちとして信玄が謙信にお礼で贈った太刀と伝えられる。

塩屋秋貞(しおや・あきさだ)

 飛騨国の武将。謙信に熊の皮、鉛、真綿などを贈ったという記録が残っている。謙信に通じて越中に軍を進めるも戦死した。

直太刀の衆(じきだちのしゅう)

 2度目の上洛から帰国した謙信に祝賀の太刀を送った侍の中でも、一門衆クラスの高い家柄を誇る者達が位置づけられている。上杉景信、桃井右馬助、山本寺定長の3名。

地下鑓(じげやり)

 上杉軍の足軽部隊の名称。百姓を兵士として動員している。

辞世の詩(じせいのし)

 時世の詩とは、人が生涯を終える前に自分の人生を振り返ってその思いを詩に託したものである。謙信の辞世の詩は以下の通り。

 1. 「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃の酒」

 大意:「49年の生涯は一眠りした夢のようだ。その栄華は一盃の酒に匹敵しようか。」

 解説:人生のはかなさと、同時にその中で充実した人生を送った感慨が込められているといわれる。

 2. 「極楽も 地獄もさきは 有明の 月ぞ心に かかる雲なき」(名将言行録)

志駄春義(しだ・はるよし)

 謙信が弾正少弼に任官したとき、謙信を祝し、謙信は礼状を送った。のち謙信が騎西城を攻略したとき彼を城主とした。

志駄義時(しだ・よしとき)

 春義の子。第4回川中島合戦で活躍するが、早朝からの合戦で各地で武田軍を撃破した疲れを癒すため川中島・原の町で休憩していたところを武田義信に急襲され、あえなく落命する。

志駄義秀(しだ・よしひで)

 義時の子。父・義時の死後夏戸城主となる。会津移封にも従い酒田城城代となる。平林正恒の没後は米沢で奉行職を務めた。

七里頼周(しちり・よりちか)

 金沢御坊の坊官。本願寺と上杉謙信との和睦に尽力する。しかし、一揆勢、本願寺、金沢御坊の坊官との足並みが揃っていたわけではなく、当然反謙信派も居た。そこで、反謙信を主張する鏑木頼信の殺害を企てたため、加賀北二郡の一揆勢と対立し、下間頼廉にその罪状を告発された。信長の加賀侵攻に対して注意を促した謙信からの書状が清水文書に見られる。

死中在生生中無生(しちゅうせいありせいちゅうせいなし)

 @謙信が長年戦場で戦って悟った人生観。

 A大意は、戦場で、死ぬつもりで戦えば実力以上の力を発揮できるし相手が怯むので、結果的に生きて帰る事が出来る。逆に、生きようと思って戦うと、その思いが動きを鈍くし結果的に敵兵に討たれることになるという意味。

柴田勝家(しばた・かついえ)

 織田軍の北陸制圧軍の最高責任者。上杉軍の攻撃を受けた能登七尾城の救援に向かう。しかし到着前に七尾城陥落の報を聞き、引き返そうとしたところを謙信に追撃され、手取川にて大敗を喫する。

新発田重家(しばた・しげいえ)

 御館の乱で景勝方につくも、その恩賞に対する不満から信長の誘いもあって景勝に背く。しかし支援者の信長が本能寺で明智光秀に討たれたため孤立無援となり窮地に陥る。やがて景勝の攻撃を受け新発田城は陥落し、重家も猛将の意地を見せて奮戦した末、自害した。

新発田長敦(しばた・ながあつ)

 謙信時代は関東方面の警戒を任されたり、また越相同盟の締結などにも尽力した。御館の乱で弟の重家や一族の五十公野宗信らと共に景勝に味方し、その勝利に大きく貢献した。また景勝と武田勝頼の甲越同盟の締結にも大きな役割を果たしており、外交官の能力にも長けていたと推測される。

紙本金地着色洛中洛外図(しほんきんじちゃくしょくらくちゅうらくがいず)

 狩野永徳の作品で信長が謙信に贈ったものとされる。京の市街地(洛中)と郊外(洛外)の四季折々の様子が描かれており老若男女、様々な身分の人や動物達の姿がみられる。

島津月下斎(しまづ・げっかさい)→島津忠直

島津忠直(しまづ・ただなお)

 村上義清らと共に謙信を頼った信濃の豪族の一人。第4回川中島合戦では先陣を果たした。景勝のもとでも活躍し、会津移封にも従った。

下平修理亮(しもだいらしゅりのすけ)

 上野家成との領地争いの訴訟を起こす。この件が本庄実仍と大熊朝秀の対立などでエスカレートして収拾がつかなくなり謙信の隠遁騒動につながる。御館の乱で景虎方に味方したため景勝に領地を没収された。

霜満軍営秋気清の詩(しもはぐんえいにみちてしゅうききよしのし)

  霜満軍営秋気清 (霜は軍営に満ちて秋気清し)

  数行過雁月三更 (数行の過雁月三更)

  越山併得能州景 (越山併せ得たり能州の景)

  遮莫家郷憶遠征 (さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)

 ※ 詩を詠んだとされる9月13日は能登七尾城開城の2日前で、まだ中秋の月を愛でる状況ではなかったとして、この詩は後世の人が謙信の心情になぞらえて作ったものとも言われている。

生涯不犯(しょうがいふぼん)

 生涯一度も姦淫しない事。

上京(じょうきょう)

 京に上洛する事。京を支配すると天下統一にグンと近づく。謙信は2度上京したといわれているが、支配する気は全く無く、天皇や将軍に拝謁し贈り物をしただけ。武田信玄は一度も上京することなくこの世を去っている。

上条政繁(じょうじょう・まさしげ)

 畠山義続の次子で謙信の養子となる。上条上杉家を相続し景勝の妹と結婚した。御館の乱でも景勝に味方し、のち海津城将もつとめたが、やがて景勝と対立すると浪人となり、景勝が会津に移封すると徳川家康の食客となって江戸で死去したと言われている。

肖像画(しょうぞうが)

 謙信の肖像画は現存するもので最も有名なものは明治以降に当時の姿を想像して描かれたものといわれ、謙信が当時描かせた肖像画は不思議なことに残されていない。死の直前に謙信は自画像を描かせたが、それは「独鈷(どっこ)」という、密教で煩悩を打ち砕くために用いる両端のとがった鉄棒が、白い雲に乗って、その下に赤い大きな木盃が1個描かれているきりのものであるという。

庄田定賢(しょうだ・さだかた)

 上杉憲政が謙信を頼ってきたときに、謙信の命で平子孫太郎と沼田城に派遣された。また、大熊朝秀の反乱の時、駒帰の戦いで活躍し、大熊軍を打ち破った。第4回川中島合戦で戦死している。

女性説(じょせいせつ)

 謙信が生涯妻帯しなかった事や、残された記録、遺品など、また物の考え方や行動にあまりにも女性的な面が見え隠れする事から、「上杉謙信は女性だったのではないか」という説。1970年代にブームになった。

身長(しんちょう)

 謙信の身長については諸説あり、大柄、小柄でも意見が分かれる。大柄という側は190センチを超える巨体だったと主張し、小柄という側は5尺2寸(157センチ)という。個人的主観を挟むなら、乗馬の得意だった謙信が190センチを超える巨体だったら、当時の小柄な馬を上手く操れるだろうかという考えから小柄説を推したい。実際、小柄という説の方がはるかに有力である。

進藤家清(しんどう・いえきよ)

 広泰寺唱派と連携し交渉に従事していた。越相同盟の起誓文を北条氏泰に上杉方の思惑通り書かせる事に成功した優秀な外交官である。

神保氏張(じんぼ・うじはる)

 守山城主。謙信に属するが、謙信の死後は佐々成政の与力となる。

神保長職(じんぼ・ながもと)

 越中富山城主。一向一揆と連携して椎名長常、椎名康胤と争う。椎名康胤が謙信の援護を仰いだため、富山城、さらに増山城を奪われて一時謙信に降伏した。

【す】

水原親憲(すいばら・ちかのり)

 大関親信の子で初め大関弥七と称した。第4回川中島合戦で軍功を立て、水原氏を相続。景勝の会津移封にも従い猪苗代城城代となる。大阪冬の陣でも活躍し感状を賜ったが、その時「我々は謙信公のもとで八幡原の戦い(第4回川中島合戦)のような大激戦をくぐり抜け感状を賜ってまいった。それにひきかえ、こんな子供の石合戦のごとき戦で感状を頂戴するとは・・・。」と秀忠を皮肉った。死後、彼の墓石は「瘧(おこり)」に効くといわれ、多くの人が彼の墓石を削って持ち帰ったといわれる。

菅名綱輔(すがな・つなすけ)

 御館の乱で景勝に味方し、加茂山から景虎方の神余親綱を牽制した。新発田重家が反乱すると景勝の命を受け新発田討伐に向かうが放生橋の戦いで戦死。

須田長義(すだ・ながよし)

 関ケ原の戦いで東軍が勝利したとの報を受け、それに乗じて侵入してきた伊達政宗の軍を本庄繁長と協力して撃破した。大阪の陣でも軍功を立て感状を受けている。

須田満親(すだ・みつちか)

 信玄の侵攻に圧迫され謙信を頼る。川中島の合戦の活躍や、越中の金山の守備、また越中における上杉方の中心的な役割を担っていたことから優れた将であったことが伺える。北信濃が景勝の領国に組み込まれると故郷に帰還し、その後豊臣秀吉に用いられて豊臣の姓を名乗った。文禄の役で朝鮮にも出兵している。

【せ】

石動山(せきどうさん)

 能登、越中両国にまたがる。謙信の能登七尾城攻略時に上杉方の本陣が置かれた。

善光寺(ぜんこうじ)

 川中島合戦のとき、本尊は武田信玄によって甲斐に移され、また謙信も仏像や仏具を越後へ持ち帰り、春日山城下に善光寺を建立して、そこへそれらを移した。

仙桃院(せんとういん)

 謙信の姉であり長尾政景の妻。つまり景勝の母にあたる。綾子、綾姫と伝える。謙信より2つ年上という説と6つ年上という説がある。政景との間に二人の男子と同じく二人の女子を産むが、長男義景は10歳の若さでこの世を去り、弟の顕景が成長して上杉景勝となるのである。また娘は長女が上杉景虎(北条氏秀)の妻となり御館の乱で自害しているので、上条政繁の妻となったのは次女であろう。仙桃院は80を超えるほど長生きし、米沢でその生涯を終えている。

仙洞院(せんとういん) →仙桃院

千利休(せんのりきゅう)

 特にエピソードは残されていないが謙信の茶は利休に習ったものともいわれている。別段深い親交の形跡は見当たらない。

【そ】

宋謙(そうけん)

 謙信の師・天室光育の後林泉寺の8世となる。謙信も彼の下に参禅して、達磨不識の境地を悟り、のち不識庵謙信と号するが、この謙の字は宗謙からもらったものとする説が有力。

総社城(そうじゃじょう)

 1560年、上杉謙信が上野に軍を進めたときに謙信に従うが、その後武田信玄の攻撃を受け、1566年ついに箕輪城などとともに武田軍に攻略された。

曹洞宗(そうとうしゅう)

 鎌倉時代にできた新宗教の一派。開祖は道元。謙信も曹洞宗を信仰していたという。また、鎌倉時代、日蓮宗と曹洞宗は、女性蔑視の風潮が無かった。