謙信こぼれ話

 

ネタはたくさんあるので少しずつ紹介していこうかと。

 

謙信誕生伝説
 北越軍談によると、謙信の誕生にかかわるこんなエピソードが書かれている。

 母・虎御前の夢枕に20歳ばかりの修験者が現れ「あなたの胎内をお借りしたい。」と頼んできた。虎御前は「私には夫があります。夫の許可無く承諾できませぬ。」と断った。

 翌日夫の為景にこの夢を話すと、「これは聡明な男児が授かる嘉兆であろう。と許した。

 そこで、精進潔斎し、神祇を祀り、美酒・珍菓を供えて床に入った。すると昨夜の修験者が夢枕に現れ「我は坂東箱根山のものなり。しからば胎内に宿りはべらん。」と言って、彼女の左の袂入った。

 こうして翌朝、虎御前は謙信を懐妊したといわれる。

敵将の子どもを逃がす
 謙信が長尾謙忠を倒したとき、彼の子二人が捕らえられ謙信の前に連れてこられた。

 家臣は「生かしておけばやがて成人し仇を討つべく殿のお命を狙いましょう。斬り捨てるのがよろしいかと存じます。」というと、謙信は首を横に振り、

「この子たちの仇討ちが成功するか否かは天が決めること。私に天運があれば彼らを放ったとしても私は無事だろうし、天運が無ければ彼らを殺したとしても私は命を落とすことになろう。」と言って、二人に金銭を持たせて解放した。

 この二人は成人した後、謙信の部下となり上杉家のため戦い戦死したといわれる。

景勝に送った手紙

 謙信が関東に在陣中、甥の喜平次(のちの上杉景勝)に送った手紙がある。

『たびたびのお手紙ありがとう。特にこのたびは私の戦場での無事を仏様にお祈りしてくれたとのこと、とても嬉しく思います。私も近々春日山に帰るので、そのときに改めてお礼をすることにします。ところで、しばらく会わないうちに字がとても上手になりましたね。もっと上達するようお手本を書いてあげましょう。』

と、「いろは・・・」を景勝の手本として書いて送った。

 戦場では「軍神」と恐れられた一方で、このような細やかな心配りを見せていたのである。

寡兵で大軍突破

 謙信の関東出征のときのこと。謙信に味方した佐野昌綱のこもる唐沢山城が北条の大軍に包囲された。

 唐沢山城は謙信にとって戦略上非常に重要な城でもあり、陥とされるわけにはいかなかった。

 軍勢をもって北条の背後を突くのが確実であるが、大軍を連れての行軍は時間がかかるため、謙信は自分のわずかの旗本達と40余騎(13騎説もある)で北条軍の囲みを突破し唐沢山城に入城。本隊が救援に向かっていると励まし、城兵の士気を盛り上げた。

 謙信のその姿に北条兵はある者は恐れ、ある者は見とれ謙信の道を遮ることはなかったという。

 城将・佐野昌綱は謙信の馬にすがりつき「毘沙門天様!」と泣きじゃくった。 

敵も味方も驚きのパフォーマンス

 謙信が関東へ出兵し、小田原城を包囲したときのこと。

 謙信は城の濠近くにやって来て、そこで悠々と弁当を食べ始めた。

 もちろん城方が放っておくはずもなく、鉄砲30挺をそろえ城中から3度一斉射撃をした。弾丸は謙信の鎧の袖をかすめたが、まったく動じることなく弁当を食べ終え長々と3杯もお茶を飲んでゆっくり陣へ引き返していった。

 あまりの謙信の剛胆さに敵兵は顔を青くしたとのことである。

 この当時の鉄砲は射程距離が短く、城から狙いが定まらない距離を計算しての謙信の頭脳プレーでもあったが、絶対に当たらない保証はない事を考えるとやはり並みの精神力ではなかったといえよう。

 もちろん無謀、あるいは将としてあるまじき軽率な行動だと非難する声もあるが、相手に与えた脅威と味方に与えた勇気は計り知れない物があったであろうから、美談と評価したい。

 また、この時は城攻めの成果があがらず、味方の兵に不安や不満が蓄積しており、何らかの形で味方の士気を高める必要があった状況だった事も付記しておく。

敵将に認められた謙信

「信玄や信長は裏表があって信用できない。しかし、謙信は約束をまもる信ずるに足る男だ。謙信の肌着をもらって、家臣達の守り袋にしたい。」

 こう言ったのは、謙信のライバル北条氏康であった。

 また、信玄も死ぬ間際に勝頼に

「わしが死んだら越後の謙信と和を乞うのだ。わしは不運にも謙信とは敵として長年にわたり戦うことになってしまったが、礼を尽くし助けを求めれば決して裏切る男ではない。」

と言い残している。

平家琵琶を聴き武威の衰退を嘆く

 謙信が20歳の頃、石坂検校に平家を所望し、ヌエの段を語ると謙信は突然落涙した。

 家臣たちが「こんな勇ましい物語を聴いて涙を流されるとはいかなるわけですか?」と問うと、

「鳥羽院の時代に、大門で怪異があった時、八幡太郎義家の弓を側においたら物怪はたちまち畏れ退いたという。またある時は弓の弦を弾いただけで妖怪は消え去ったそうな。

 それなのに、それから40年たっただけで、源頼政がヌエを射ても、それでも相手は死なず、猪隼太が刺殺してようやく倒したというではないか。

 この40年間で、弓を弾いただけで逃げ出した妖怪が、射てのち刺殺せねばならぬまでに我が国の武徳は衰えてしまった。

 まして、現在はその頼政の時代からさらに400年も経っている。今では、頼政ほどの弓の使い手も居ない現状である。そんな状態であるから、義家ほどの使い手など居るはずもない。我が国の武門の威徳が衰えていくのが悲しいのだ。」と答えた。

弱敵を攻むるは武門の恥

 第4回川中島合戦のとき、謙信は信玄より先に川中島に到着した。

 海津城には信玄の寵臣・高坂昌信が立て籠っている。

 謙信の家臣達が「信玄が到着する前に、あのような城は踏みつぶしてしまいましょう。」と進言したが、謙信は「弱敵を攻むるは卑怯、武門の恥ぞ。」といって取り合わなかった。

 謙信の正々堂々さをアピールしている話ではあるが、実際問題としては海津城攻めにはかなりの被害を覚悟しなければならなかった事と、この戦いにおいては城を陥とすことよりも、信玄の首をとる事の方が大切だった事が理由である。

人質を養子に

 越相同盟締結の折、上杉家と北条家の間で人質が交換された。

 上杉から北条へは、柿崎景家の子・晴家が送られ、北条からは氏康の子・氏秀が送られてきた。

 この氏秀は、この以前武田家に人質として送られており、その後上杉家に送られるという人質人生を送ってきており、謙信はその氏秀を不憫に思い、人質としてではなく養子として引き取った。

 そして、昔の自分の名である「景虎」と名乗らせたのである。

 この謙信の待遇に、北条氏康も甚く感激して、お礼と氏秀の事を宜しく頼みますという内容の書状を何通も謙信に送っている。

 越相同盟は氏康の死によって消滅し、晴家は上杉家に帰還、しかし氏秀は養子となったため上杉家に残った。

 しかし、この謙信の厚遇が謙信死後の御館の乱へと発展してしまうのが皮肉な話である。

謙信の返り感状

 謙信と信玄の間で講和の話が持ち上がり、信玄からの使者として長遠寺の僧が来訪した時の話。

 謙信は彼に「甲州の侍に向井与佐衛門という者があるか?」と問い、僧は「ございます。」と答えた。

 謙信はさらに「刀の傷あとがあろう?」と言うので、僧は「はい。面に刀傷があります。」と答えた。

 すると謙信は懐かしそうに、「おお、やはりのう。川中島の戦において、名乗りを上げ槍で我々を後ろから突こうとしたゆえ、振り向きざまに一太刀浴びせたのだが、あれほどの傷では生きてはおるまいと思うておったに、生きておったか。めでたい限りじゃ。」と語った。

 そして、その戦いで身につけていたものと思われる、槍の傷あとのついた萌黄の胴肩衣を取り出し、それに武勇を褒め讃える感状を付けて向井に贈った。

 これを謙信の返り感状という。

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