上杉謙信小事典【か行】
【か】
戒杖刀銘国宗(かいじょうとうめいくにむね)
謙信が高野山に参拝した際に携帯したといわれる仕込杖。
海津城(かいづじょう)
1560年ごろ武田氏の手によって完成。謙信時代は信玄の寵臣高坂昌信が守った。武田氏滅亡後、織田、上杉と次々と城主がかわり最終的に真田信之が移った。
改名(かいめい)
名前を変える事。謙信の場合、長尾虎千代→長尾平三景虎または長尾喜平次景虎→長尾輝虎(1度目の上京の時、一時的に名乗った)→長尾景虎→上杉景虎→上杉政虎→上杉輝虎→上杉不識庵入道謙信と改名している。また戒名は上杉不識院殿真光兼信である。
加賀(かが)
現在の石川県の一部。北陸の一向一揆の中心地ともいえる。
懸り乱れ龍の旗(かかりみだれりゅうのはた)
謙信が総攻撃を命じた時に本陣に立てる旗。白地に黒で「龍」の1文字が書かれている。
柿崎景家(かきざき・かげいえ)
一. 自他共に認める越後一の猛将。その戦いぶりには謙信も舌を巻き、「越後八州で彼にかなうものはいないだろう。」と洩らした。川中島の合戦でも上杉軍の先鋒をつとめた。1574年死去。
二. 戦場で彼の部下が戦争中に敵将の首を獲った事を報告に戻った際、「大事な戦いの最中に、敵の首をとったとわざわざ見参に及ぶとは見苦しい功名であろう。」と叱りつけ戦場に帰らせたという、手柄より勝利を優先すべきという考え方の持ち主だったというエピソードがある。
柿崎憲家(かきざき・のりいえ)
晴家の子。御館の乱で景勝方として活躍し、取り潰されていた柿崎家を再興した。
柿崎晴家(かきざき・はるいえ)
景家の子。家憲ともいう。越相同盟の際は人質として北条氏康のもとに預けられた。のち帰国するが、織田信長に内応したとの疑いを受け謙信に攻め殺され、柿崎家は取り潰される。
懸守(かけまもり)
神社や寺の護符または本尊のミニチュアを筒型の容器に入れた、首にかけるお守りで、謙信のものは金箔の施された容器に毘沙門天などが納められている。
加持春綱(かじ・はるつな)
上条の乱で長尾為景に味方した。1564年、飯山城を守った。
加持秀綱(かじ・ひでつな)
御館の乱で景虎方に味方して戦死。
梶原政景(かじわら・まさかげ)
太田資正の次男。父とともに兄・資房(氏資)に追放される。謙信の招きがあったが、父・資正は佐竹氏に身を寄せたのでこれに従い、佐竹氏の客将として小田城攻めなどに活躍。その後結城秀康に仕え、越前に赴き、大阪の陣にも出陣した。
春日元忠(かすが・もとただ)
武田家臣だったが、主家の滅亡後は景勝に仕え、直江兼続のもとで活躍する。「直江被官の棟梁」と呼ばれるまで兼続の信頼を得た。行政面だけでなく最上攻撃などの軍事面でも活躍している。
春日山城(かすがやまじょう)
一、上杉謙信の居城。謙信の父為景が要害とし、謙信が拡張して天下の名城に仕上げ、景勝がさらに手を加えた。景勝の会津移封後は堀氏が入り、福島城を築城してそちらに移り住んだため春日山城は廃城となった。
二、 極めて広大で、規模は春日山全域に及び5万へクタールを越える。名前の由来は上杉氏が奈良の春日大社から際神を歓請した事に由来する。
春日山城支城群(かすがやまじょうしじょうぐん)
春日山城から越後各地へ通じる街道の要衝には支城群が置かれ、防衛の目的で重要な役割を担った。支城群の配置された方面は以下の4つ。
〔中郡口(なかごおりぐち)〕
上越から中越地方へ通じる。特に中間の米山峠が軍事上の重要地点で、旗持城、猿毛城、顕法寺城などの山城が築かれた。
〔関東口(かんとうぐち)〕
三国峠を越えて関東へ通じる軍道。直峰城、松代城、犬伏城など。
〔信州口(しんしゅうぐち)〕
川中島への道。信濃と越後の国境警備の役割を果たす。鮫ヶ尾城、鳥坂城、箕冠城など。
〔越中口(えっちゅうぐち)〕
越中に通じる道。不動山城、根知城、勝山城など。
勝山城(かつやまじょう)
頚城郡にある城で、別名を落水城、堕水城、越水城(いずれも読み方は「おちみずじょう」)ともいう。越後の最西端にある山城で、春日山支城群のひとつである。景勝と秀吉の会見があったという。(→越水の会)
勝山本川中島合戦の図屏風(かつやまぼんかわなかじまがっせんのずびょうぶ)
江戸時代の創作と思われる。上杉方の「北越軍記」と武田方の「甲陽軍鑑」の記述を参考にしている。
春日槍(かすがやり)
「槍は長ければ長いほうが良い。」とは北条早雲、斎藤道三、織田信長らが有名だが、謙信も同じ発想の持ち主。当時の槍は突いて敵を倒すのではなく、振りまわして相手にぶつけて敵を戦闘不能にさせ、持っている刀で首を切り落とすのが基本だった。そのため謙信は槍の威力の向上を図り、春日槍と呼ばれる通常より長い槍を使用させたという。
加当段蔵(かとう・だんぞう)
一時的に謙信の許に使えた凄腕の忍者だが、非常に危険な人物だったため、謙信は鬼小島弥太郎に抹殺指令を出す。そののち武田領に逃げ込み信玄に仕官したが、結局信玄に殺されたらしい。
金津新兵衛(かなつ・しんべえ)
謙信の子供の頃からお守り役としてずっと謙信に仕えつづけた忠臣。全家臣の中で最も謙信との付き合いが古い。もちろん、謙信からは父のように慕われ信頼されつづけた。謙信の父・為景は高齢だった上、謙信が7歳の頃に死んでいるのでなおさらだったであろう。
神余親綱(かなまり・ちかつな)
上杉家の京都代官として京に派遣され駐在し、朝廷、幕府との折衝に当たる。また三条西実隆と親しく、倉田五郎佐衛門とともに、青苧や越後上布の輸出管理もした。1575年、三条城主の山吉豊守が病死すると、その城主となるが、御館の乱で景虎に味方し黒滝城を攻めるも失敗。翌年三条城は落城し、親綱は旧山吉の家臣達に斬殺された。
樺沢城(かばさわじょう)
御館の乱で、北条氏政が弟の上杉景虎を救援すべく北条氏照・氏邦を差し向けたとき、北条軍が景勝攻撃の前線基地とした城。翌年景勝の軍勢によって落城。会津移封に伴い廃城となった。その城跡は現在県の史跡に指定されている。
上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)
大胡城主。剣聖とよばれる。謙信の関東出征にも従い、長野業正らと武田・北条相手に戦った。業正没後、長野氏の箕輪城を、若き業正の子業盛とともに防衛するが、落城。業盛は自害し、信綱は捕らえられる。この時信玄は信綱を気に入り自分の「信」の字を与えた事から「信綱」と名乗るようになったという。その後は放浪し剣の道を追及し、「陰流」を改良した「新陰流」をあみだした。
上泉泰綱(かみいずみ・やすつな)
上泉信綱の孫。景勝に仕え、最上領からの撤退戦で活躍するが、敵陣深く入り込み戦死してしまう。最上義光は、それが泰綱だと知ると手厚く弔ったという。
唐草透彫烏帽子形兜(からくさすかしぼりえぼしがたかぶと)
全体に金箔を施した豪華な烏帽子型の兜。練皮に唐草を透かして上部中央に「無」の字を黒漆でデザインしている。謙信所用と伝えられる。
唐沢山城(からさわやまじょう)
佐野昌綱の居城。昌綱は謙信が攻めてくると謙信に服属し、謙信が帰国すると武田、北条について抗戦したため、謙信はこの城に何度も何度も軍勢を派遣しなければならなかった。
唐人又太郎(かろうど・またたろう)
中国・朝鮮からの渡来人であろう。上杉景勝から朱印状を宛てられた。又太郎の地位は鉄砲師範と明らかになった。のち、武士を廃し、修験者となって紀州大峰山入りした。
皮製金箔置烏帽子形兜(かわせいきんぱくおきえぼしがたかぶと)
総体に金箔を押した左折(大将は左、平士は右と決まっている)の風折烏帽子型兜。儀式の際に用いられたものと推測される。
河田重親(かわだ・しげちか)
長親の伯父。松本景繁、新発田長敦らとともに、武田・北条の動向の調査や反乱を起こした本庄繁長の信玄との密使の探索などを謙信の命により行なう。越相同盟にも果たした役割は大きい。御館の乱で景虎に味方し敗れ、その後北条に仕えたという。
河田長親(かわだ・ながちか)
近江国守山の出身だが、謙信が上洛した際にその才覚を気に入られ、謙信の側近として召抱えられる。1569年、魚津城代となる。性温厚にして知略あり、謙信の信任も厚かった。謙信の死後、織田信長が近江に領土を与えると内応を持ちかけたが断固拒否。松倉城を柴田・佐々・前田の軍から守った。1581年病死。
河田吉久(かわだ・よしひさ)
1576年、謙信の命令で直江景綱らとともに石動山城を築く。御館の乱では景虎に味方した。
河田谷忠朝(かわたや・ただとも) →木戸忠朝(きど・ただとも)
川中島(かわなかじま)
犀川と千曲川が合流して形作る三角州の流域、この辺りを総称して川中島という。善光寺平の真ん中に位置する。ここが両軍が自国を守るための軍事上の重要地点であった。
川中島五箇度合戦之次第(かわなかじまごかたびかっせんのしだい)
1615年、上杉家臣清野助次郎と井上隼人正が執筆。一巻。川中島の合戦について書かれている。
川中島の一騎討ち →一騎討ち
川中島の合戦(かわなかじまのかっせん)
武田信玄が信濃に勢力を伸ばし、諸豪族達を圧迫。信玄に所領を追われた豪族達が謙信に援軍を要請し、武田氏の進出を危険と謙信が感じた事もあって謙信が軍を派遣したことで武田、上杉の因縁の対決が始まる。両家の軍事上の最重要地点としてぶつかり合ったのが川中島だった。
管窮武鑑(かんきゅうぶかん)
夏目定房著。主君・永井尚政から武田家の兵法、上杉家臣の父から越後流軍法を学んで、両家の兵法をさらに研究し執筆した作品。「上杉記」とも「謙信記」ともいう。
かんずり
越後、新井地方に古くから伝わる生活食品。冬の寒さをしのぎ夏のスタミナ源ともなる香辛料。謙信も戦場で好み寒さをしのいだという。秋に採れた唐辛子を厳冬の中、雪にさらし柔らかくしアクを抜き、塩、糀、ゆずなど数種類の天然薬味を加え3年間自然発酵させる。
関東管領(かんとうかんれい)
室町幕府の官職で、関東を中心とした東国の管理をする役職。謙信は有名無実化していたこの役職を元の状態に戻そうと何度も関東へ軍勢を派遣した。
関八州古戦録(かんはっしゅうこせんろく)
駒谷散人(槙島昭武)著。上杉謙信、北条氏康、武田信玄らの業績や、小田原城の落城の話が書かれている。
願文(がんもん)
神社などに奉納する神様に宛てた手紙。謙信の場合、神様に報告する形式で書かれている。他の武将も願文を納めたりしているが、謙信の場合かなり趣が違う。武田信玄の悪行を並べた願文や、「短気を直して健気に生きていきます。」と宣言した願文を納めるなど、なかなか微笑ましいエピソードもある。
【き】
菊姫(きくひめ)
上杉景勝の妻で、父は武田信玄。秀吉に人質として伏見の館に預けられそこで死去した。菊姫を頼って弟の信清(武田信玄6男)が米沢に在住した。
紀州本川中島の合戦の図屏風(きしゅうぼんかわなかじまのかっせんのずびょうぶ)
「北越軍記」に基づいて書かれており、一騎討ちの描写も見られる。
北条景広(きたじょう・かげひろ)
高広の子。謙信が能登七尾城から帰国したのち、畠山義隆の未亡人・三条氏を景広と再婚させた。御館の乱では景虎方に味方し、荻田孫十郎に討たれたとある。
北条高広(きたじょう・たかひろ)
北条城城主。毛利元就とは遠い親戚に当たると言われる。1554年に武田方の甘利昌忠を通じて内応し、謙信に反旗を翻す。謙信の攻撃を受けて降伏するも、謙信は高広を処罰しなかった。のち1563年に今度は北条氏康に内応して再び謙信に背くが、翌年北条氏政の仲介により帰参した。御館の乱では景虎方に味方し敗れ、武田勝頼、織田信長配下の滝川一益に仕えたという。
啄木戦法(きつつきせんぽう)
キツツキが木の虫を食べる際、反対側の幹をつついて虫を脅かし穴から逃げてきたところを食べる事になぞらえてたてた作戦で、妻女山の上杉軍を別働隊で背後から襲い、あわてて逃げてきたところを八幡原に陣取る本隊で挟み撃ちにしようとした。信玄の軍師山本勘助の作戦とも信玄本人が案じた作戦ともいわれる。
木戸忠朝(きど・ただとも)
武蔵国羽生城城主・木戸範実の子。謙信の関東出征軍に服属。謙信に忍城の成田長泰が背くと、謙信は横瀬成繁に皿尾城を攻略させ、そこに忠朝を配置し成田氏に睨みを利かさせた。
喜平次(きへいじ)
上杉景勝の少年時代の名前。謙信の少年時代の名前でもあったともいわれる。
基本兵士数(きほんへいしすう)
謙信が戦場で最もよく使用した兵士数は8000人ほどとされる。越後の動員能力はもっと高かったともいわれるが、謙信はこのぐらいの規模が一番扱いやすかったらしい。
【く】
熊木城(くまきじょう)
第1次能登七尾城攻撃で、その堅固さを実感した謙信が、七尾城に篭城して留守にしている能登諸将の城を攻略したうちの一つ。謙信の不在中に長綱連が奪回した。
倉賀野直行(くらがの・なおゆき)
上野国倉賀野城城主。謙信の関東出兵に従う。謙信帰国後、武田・北条の攻撃からよく城を守ったが、ついに信玄の猛攻の前に城は落ち、謙信のもとに逃げ込んだ。
倉田五郎佐衛門(くらた・ごろうざえもん)
伊勢の御師出身で、3代にわたって仕える。完全な武将ではないが、城下町の治安維持、春日山城の普請、直江津において青苧や越後上布の管理、船積、交渉などを担当した。
栗田国時(くりた・くにとき)
栗田氏は善光寺の別当の家である。景勝が北信濃を占領した時景勝に仕え、出羽の検地にも従い、岩代での戦いで活躍。会津移封にも従った。
栗林政頼(くりばやし・まさより)
上野での対武田戦、本庄繁長討伐、越中攻撃などに参戦。浅貝寄居城の築城も担当した。御館の乱では景勝方として活躍。
車懸り(くるまがかり)
謙信が得意とした戦法で、第4回川中島の合戦で使われたといわれる。本営を中心として各隊が順次周りながら突撃する戦法。前線の兵が常に入れ替わるので、兵の疲労を軽減することが出来る。
しかし、これは江戸時代の歴史家による創作ではないかと言われている。その考えから行くと、謙信がこのとき取った戦法は車懸りではなく、反転攻撃だったのではないかとされる。
車笠(くるまがさ)
謙信は発明好きで、武器や防具などを発明しては実際に試していた。これはその発明品の一つ。車笠と呼ばれるのは、笠の部分に矢や鉄砲の弾が当たるとクルクル回転し、矢弾を弾き飛ばす仕組みになっているからである。
紅地雪持柳繍襟辻ヶ花染胴服(くれないじゆきもちやなぎぬいものえりつじがはなぞめどうふく)
謙信所有の女性用に見えるぐらい非常に艶やかな服。辻ケ花染めは幻の染めと言われ、ほんの一時期に制作され忽然と消えてしまったので、大変貴重な品である。
黒金景信(くろがね・かげのぶ)
御館の乱では景勝に味方した。魚津城の仕置、春日山城の御留守衆を務めたりしている。
黒川清実(くろかわ・きよざね)
御館の乱では景虎方につき、景勝方の中条景泰の鳥坂城を攻略。子の為実は景勝に従い、会津、米沢へと移転した。
黒滝城(くろたきじょう)
黒田秀忠が立て籠り謀反を起こした城。のち山崎秀能が入り、御館の乱で景勝に味方した。この時黒滝城は景勝方の西蒲原における拠点となった。
黒田秀忠(くろだ・ひでただ)
謙信14歳の頃、黒田秀忠は謙信の兄・景康を殺害して守護代の長尾晴景に謀反を起こした。謙信は桃井らと諸将を集め、秀忠を攻撃し降伏させた。秀忠は僧となって他国に移る事を条件に謙信に助命嘆願し、謙信もこれを許したが、翌年再び黒滝城に現れ反乱を起こしたため、今度は黒田一族ことごとく切腹となった。
【け】
下条忠親(げじょう・ただちか)
河田長親の次男。景勝の会津移封にしたがい秋山定綱と二本松城の城代を務めた。米沢移封にも従い、鮎川城代となる。大阪冬の陣にも出陣した。
謙信小判(けんしんこばん)
謙信の鋳造とされる円形の小判。
謙信頭巾(けんしんずきん)
明治・大正時代に売り出された「信玄袋」に対するように売り出された頭巾。しかし、この頭巾は男性用の「宗十郎頭巾・袖頭巾・目ばかり頭巾」ではなく、女性用の「おこそ頭巾」であるらしい。
【こ】
甲越軍記(こうえつぐんき)
速水暁斎著。甲陽軍鑑と北越太平記をもとに作られたが、著者が他界し未完。
上野(こうずけ)
現在の群馬県の一部。
広泰寺唱派(こうたいじ・しょうは)
三用山広泰寺の住持。越相同盟の直接的な仲介として、誓紙・起誓文の取り交わしなどに尽力した。
甲陽軍鑑(こうようぐんかん)
武田家臣・高坂昌信の遺記に春日惣二郎・小幡下野らが加筆し、小幡景憲がそれらをまとめて完成させた甲州流軍学の書。信玄・謙信の一騎討ちについても書かれている。
高坂昌信(こうさか・まさのぶ)
武田家家臣。信玄に寵愛された。川中島の合戦のとき海津城を守る。彼の遺記をもとに甲陽軍艦が作られた。
小島職鎮(こじま・もとしげ)
神保家臣。謙信に恭順し、天正5年の「上杉家家中名字尺手本」には越中勢の筆頭に挙げられている。
五十騎衆(ごじゅっきしゅう)
景勝が謙信の養子となって春日山城に移る際に、上田長尾氏譜代の家臣から50人を選んで編成したもので、景勝擁立の中心勢力となる。
小菅山元隆寺(こすげさんげんりゅうじ)
坂上田村麿呂が建てたと伝えられる。謙信が武田信玄討滅を祈る願文を捧げた。
後奈良天皇(ごならてんのう)
従五位下・弾正少弼を授与された謝礼のため上京した謙信の謁見を許し、天盃・御剣を下賜するとともに、周辺地域の敵を討つよう綸旨を授けた。これにより謙信は大義名分を得る。
近衛前嗣(このえ・さきつぐ)
謙信の2度目の上洛で、関白の身分でありながら越後に下向。古河公方になることを願ったが、関東の諸将に嫌われ成らなかった。のち、信長や家康に接近する。
近衛稙家(このえ・たねいえ)
近衛前嗣の父。謙信とは親交があり、謙信の求めに応じて、藤原定家著の「詠歌大概」一冊を贈った。
駒帰の戦い(こまがえしのたたかい)
信玄に内通し反乱を起こした大熊朝秀を謙信が打ち破った戦い。上野家成、庄田定賢らが活躍。
護摩堂城(ごまどうじょう)
越後守護の上杉房能が長尾為景に討たれ、怒った兄の関東管領・上杉顕定が越後へ攻め込んできたとき、為景方の拠点となった城。
小森沢政秀(こもりざわ・まさひで)
景勝の命で信濃方面の守備についていた。御館の乱での好判断や戦功を景勝に認められる。
紺地日の丸の軍旗(こんじひのまるのぐんき)
“天賜の御旗”とも称される。長尾家に代々伝わっていたが、その後紛失してしまったものを為景が新調することを許された軍旗。越後の国人達に為景の地位の確立を正当化するのに役立った。