馬超孟起について

謙信は日本人なら一般常識として知ってるだろうけど、馬超となると三国志ファンでもないと知る機会が少ないので軽く紹介をば。

ただ、ワシもまだまだ勉強不足なもんで間違ってる部分もあるかもしれません。勉強して、間違いがあれば修正していきまする。

 

★時代背景

 三国志の時代は後漢末期、黄巾の乱が起こった184年から晋の統一による280年までが舞台です。正式に「三国鼎立時代」となると劉備が蜀を乗っ取った214年、あるいは劉備が皇帝を名乗った221年から蜀滅亡の263年という事になりますか。日本では卑弥呼の時代の前後です。

 

★馬超の生まれ故郷

 姓は馬、名は超。字(あざな)は孟起。字とはニックネームのようなもんです。名乗りを挙げるときは「我こそは西涼の馬孟起なり!!(←字で名乗るときは名は省略する)」という感じで名乗るわけですな。日本ではもちろん「ば・ちょう」ですが、中国読みでは「マー・ツァオ」となるようです。

 なお、「西涼」というのは、馬超が住んでいた地域で、現在の中国の甘粛省からんま1/2の呪泉郷でお馴染みの青海省のあたりかと思われます。つまり、かなり中国の奥地、シルクロード交易の中継地点である敦煌に近いわけです。

 この地域は異民族との交流も非常に深く、中国人と異民族のハーフなども珍しくなかったそうで、馬超の父親である馬騰もハーフだったと言われています。そのため白人系の血が多少混じっているとかないとか言うことで、かなり美男美女が多かった地域らしいです。

 

★馬超の外見と「錦馬超」について

 馬超も例外ではなく、整った顔立ちに流れる星のような眼(←どんなんやねん)、紅をさした様な唇とか、容姿については相当に誉められています。身体つきは1メートル95センチとか書いてある本がありましたが、まあ、それが大げさだとしてもかなりの偉丈夫だったと推測されます。

 また、白銀の甲冑に身を包み、遠くからも「あれが馬超である」というのが分かる格好で鬼神の如く敵を打ち倒し、人はそのうち彼のことを「西涼の錦馬超」と誉め称えるようになりました。

 地域柄、馬超は異民族と戦うことも多く、異民族の将兵達は彼の戦い振りから非常に馬超を畏れ、また尊敬したと言われています。

 この地域は見渡す限り砂漠や大草原で、モンゴル高原の人たちのように放牧をしながら暮らしているといった風情で、西涼軍の兵士たちは馬の扱いに大変長けていました。当時は騎馬戦は戦闘の主力中の主力ですから、中原の人々は「西涼の強兵」と彼らのことを恐れました。

 

★馬超の一生

 さて、馬超がどんな人物だったかという事ですが、三国志演義・・・というか横山光輝三国志を元にすると、まず父親の馬騰は劉備玄徳と共に、曹操を討って漢の国を守ろうと誓い合った仲でした。曹操は帝を利用し、馬騰に上洛し都の警備をするように命じさせます。

 馬騰は長男の馬超を国に残し、次男の馬休、三男の馬鉄、甥の馬岱を連れて上洛。この機に曹操を討ってしまおうと計画しましたが、その計画が露見して馬騰、馬休、馬鉄は殺されてしまいます。馬岱だけは後陣に居たため、命からがら逃げ帰ることが出来ました。

 帰ってきた馬岱から事の次第を聞いて馬超は激怒。仇を討つべく、馬騰の義兄弟の韓遂と協力して曹操に決戦を挑みます。戦いは曹操が直垂を捨てて逃げるほど西涼軍の圧倒的優勢で進んでいましたが、離間の策によって馬超と韓遂の仲が崩壊し馬超は敗走してしまいます。

 その後、馬超は妻子らを皆殺しにされついに身内は馬岱だけとなってしまいました。

 馬超は曹操の追っ手から異民族のもとでしばらく身を隠し再戦を挑みますが敗れ、漢中の張魯の世話になります。

 その後、馬超は劉備の配下となって蜀の5虎大将(関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠)の一人になるということです。

 

★正史では・・・。

 なお没年についてですが、演義では諸葛亮の南征の直後辺りで病死となっていますが、正史ではその以前の222年となっているようです。つまり劉備より先に死んでいるというわけです。

 馬超は死ぬ間際に、「私の一族はいずれも曹操によって殺され、残ったのは馬岱ひとりになってしまいました。何卒馬岱の事をよろしく頼みます。」と劉備に上奏したといいます。

 また正史では、馬騰が殺されたのはそもそも馬騰らはその頃、なかば人質という形で都に滞在しており、馬超が曹操との国境付近で軍事行動をしたため殺されたという事になっています。おそらく曹操の脅威から国を守るため、馬超は非情に徹したものと思われます。

 

★三国志演義とは

 明の時代・1494年に羅貫中が庶民の読み物として三国志の話を物語風に大げさにしたり、ドラマチックな展開に脚色したものです。羅貫中は劉備や諸葛亮といったところを軸に物語を書いているため、かなり蜀びいきの記述になっています。なお、蜀の遺臣・陳寿が晋に仕えたのち編纂した「三国志」が彼の死後「正史」と認定されました。

 

 ・・・説明はこんなところですかね。正直自分も三国志についてはかなり勉強不足なもので、ところどころ間違いがある気がしてしょうがないですが。まぁ、おおざっぱな流れと、馬超がどんな人なのかさえ何となくつかんでもらえればいいです。

 

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