上杉謙信小事典【あ行】

 

【あ】

会津(あいづ)

 上杉景勝が、豊臣秀吉によって転封された土地。景勝はこの地と、佐渡、庄内地方を合わせて120万石を与えられる。また、陪臣の直江兼続も秀吉に気に入られていたため、景勝の120万のうち30万石という大名扱いの土地を米沢に与えられた。この米沢30万石が米沢藩となる。

青苧(あおそ)

 越後上布の原料となる。直江津で取り引きされた。北国船の中でも青苧と越後上布を専門に積んでいたものを苧船(おぶね)と呼ぶ。麻糸から作られる。

赤地牡丹唐草文天ビロード洋套(あかじぼたんからくさもんビロードようとう

 謙信が好んで使用した洋套。洋套とは、ポルトガル語でカッパ、英語でケープと称される。わが国に無い「ビロード」の生地で作られている。この洋套が、日本独自の陣羽織の母体となるのである。これを見ると謙信は意外とオシャレだったという事が分かる。

揚北衆(あがきたしゅう)

 長尾(上杉)氏が南越後に拠を構えているのに対し、北越後出身の国人達を総称してこう呼ぶ。具体的には阿賀野川以北出身の豪族を指す。南越後の豪族達に比べ独立心が強く、中でも本庄繁長は5年にわたって謙信に反旗を翻した。

朝嵐(あさあらし)

 謙信愛用の琵琶。陣中にも持っていったらしく、第4回川中島合戦ではにらみ合いの時、これで暇を潰していたとか。また、家臣達にもよく聴かせてやっていたらしい。

旭山城(あさひやまじょう)

 第2回川中島合戦の時、武田に味方した栗田氏らが武田の援軍三千とともに立て篭もった城。合戦後の講和によって、謙信に破壊されたが第3回川中島合戦の時、謙信は再びこの城を再興して一時的に本陣として使用した。

足利藤氏(あしかが・ふじうじ)

 古河公方足利晴氏の子。氏康に抵抗し謙信と結ぶ。謙信が関東から撤退すると北条の反撃を受け里見領に逃亡した。

足利義輝(あしかが・よしてる)

 室町幕府13代将軍。剣豪・塚原卜伝の教えを受け、「剣豪将軍」と呼ばれるほどの剣の達人であった。剣だけでなく頭も良く、衰退する幕府の立てなおしのため、力を急速につけてきた謙信を頼る。しかし、義輝の才能を恐れた松永久秀に1565年暗殺された。

鯵坂長実(あじさか・ながざね)

 越中国新庄城主。一向一揆が椎名康胤と謀り攻め込んできた時、謙信の命を受けて援軍に駆けつけた直江実綱とともにこれを撃退する。謙信が能登七尾城を攻略するとその守備を任せられた。

芦名盛氏(あしな・もりうじ)

 越後の東隣り、現在の福島県の大名。武田信玄の指示により、しばしば越後に侵入した。しかし謙信が織田軍と戦う頃には、謙信にひれ伏していたらしい。

小豆長光(あずきおさみつ)

 謙信愛用の刀。一騎討ちのときこれで斬りかかったと伝えられているが、一騎討ちはなかったとする説が有力。

安土城(あづちじょう)

 @1576年に信長が近江に建設を始めた勇壮巨大な城。本能寺の変のあと焼かれて焼失した。天下人としての武威を全国にアピールしようとしたものであるといわれる。

 A謙信と戦う事になったら謙信の戦闘力からいって、北陸侵攻軍は持ちこたえられないと判断した信長が、いざという時はこの城に篭もって迎撃する腹づもりだったという見方もある。

甘粕景継(あまかす・かげつぐ)

 猛将・本庄繁長と並び賞される勇将。白石城城主。関ヶ原の合戦の後孤立した上杉の領土を削ろうと侵入した伊達軍を撃退。

甘粕景持(あまかす・かげもち)

 第4回川中島の合戦で、武田の別動隊をよく防ぎ軍を速やかに退却させるのに貢献した。この活躍を謙信はこの合戦での武功第一とし、血染めの感状を与えられた。

天国(あまぐに)

 謙信が関東管領になったとき、憲政から譲られた刀。

綾子(あやこ)→仙桃院

綾姫(あやひめ)→仙桃院

荒川伊豆守(あらかわいずのかみ)→荒川長実

荒川長実(あらかわ・ながざね)

 第4回川中島の合戦で、信玄の本陣に単騎突入し、信玄に二ヵ所の怪我を与える。撤退に失敗し討ち取られたとも、逃げ延びたとも言われる。武田方はこの人物の存在をもみ消し、謙信自らが信玄に斬りかかったと記録した。

荒戸城(あらとじょう)

 御館の乱の時、北条が上杉景虎救援の軍を発した場合、その侵攻を阻止するために景勝が作らせた城。

【い】

飯綱権現前立兜付色々威腹巻(いいづなごんげんまえだてかぶとつきいろいろおどしはらまき

 謙信所用の甲冑。謙信の遺品の中でも特に貴重である。全体的に華美に作られているが、古風な感じも大切に残されている秀作である。

飯山城(いいやまじょう)

 上杉武田の国境口の交通の要地であり、武田に一時奪われていたのを謙信が取り返してこの地に飯山城を築かせた。1583年景勝配下の岩井信能が改築、区画整理を行なった。

雷城(いかずちじょう)

 対芦名への前線基地と思われる。1567年の芦名軍の攻撃や、御館の乱での景虎方の攻撃を受けても落城しなかった。

五十公野信宗(いじみの・のぶむね)

 謙信、景勝に仕えたが、新発田重家が景勝に反乱した時、重家に味方したため景勝に攻められ自害した。

泉沢久秀(いずみさわ・ひさひで)

 景勝の命で「文禄三年定納員数目録」を作成した。領国内諸将の知行定納高と公役人数を書き出したもので2000人にのぼる家臣団が記載されている。

伊勢姫(いせひめ)

 伝説上の人物。平井城城主の娘で、謙信が平井城を落とした時に恋に落ちたというエピソードがある。

一に謙信、二に繁長、北条桃井負けず劣らず(いちにけんしん、ににしげなが、きたじょうももいまけずおとらず)

 越後ではやった唄。馬術の上手さをランキングしている。やはりトップは謙信らしい。

一騎討ち(いっきうち)

 第4回川中島の合戦で、上杉謙信が単騎武田の本陣に突っ込み、信玄に斬りかかったとされているが、実際にはなかったという説が有力。

一向一揆(いっこういっき)

 一向宗を信じる農民達の一揆。通常の百姓一揆と違い、本願寺教団本部から指令が出れば、たとえ相手が名君であろうとも攻撃する。信玄が本願寺顕如と親戚関係にあったため、信玄の要請で頻繁に謙信を攻撃した。

犬伏城(いぬぶしじょう)

 謙信の関東出征の時の拠点となった城。御館の乱のときは景勝の勝利に大きな役割を果たした小森沢政秀が城主となっていた。

井上清政(いのうえ・きよまさ)

 村上義清配下。武田の侵攻を受け謙信を頼る。第4回川中島合戦の時妻女山に残った。

色部顕長(いろべ・あきなが)

 勝長の子。本庄繁長との戦いで活躍した。「顕長」という名は謙信に与えられたものらしい。

色部勝長(いろべ・かつなが)

 第4回川中島の合戦で、危機に立たされた柿崎景家隊を救出し、その武勇を轟かせた。1564年には、関東で佐野城攻めに活躍し、その城主に任命される。1568年、本庄繁長討伐の城攻めの途中陣中で病没した。戦死ともいわれる。

色部長実(いろべ・ながざね)

 兄・顕長の死後、家督を継ぐ。出羽仙北一揆の鎮圧で活躍。朝鮮出兵にも参加するが、病死した。

色部光長(いろべ・みつなが)

 色部顕長の子。関ヶ原合戦時の最上領からの撤退戦で、水原親家らとともに殿(しんがり)をつとめ奮戦。

岩井信能(いわい・のぶよし)

 岩井氏はもともと信濃の豪族だったが、父の代で武田に抵抗し、のち越後に移り謙信に仕える。この時信能は謙信の小姓として仕え、景勝の代に飯山城主となり後世の手本となる行政手腕を発揮した。文武両道、茶の湯の達人としても知られる。

隠居事件(いんきょじけん)

 第2回川中島合戦が長期戦となったため、いざこざが起こり、それから派生した家臣達の領地争いに嫌気がさした謙信が、国主の座を捨て出家しようとした事件。慌てた家臣達が謙信を引きとめ、結果的に家臣団が団結した事から、謙信の作戦だったとする説もあるが、そのリスクの大きさや性格を考えると本気で隠居を決意したものと思われる。

隠遁事件(いんとんじけん) →隠居事件

 

【う】

上杉顕定(うえすぎ・あきさだ)

 上杉憲政の父。弟である越後守護の上杉房能が謙信の父・長尾為景に殺されたため、仇を討つべく越後へ攻め込む。一度は為景を追い散らすが、佐渡で力を盛り返した為景の反撃に遭い弟同様、為景に殺された。

上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)

 謙信の従兄・長尾政景と謙信の姉・仙桃院の子として生まれる。謙信死後の後継ぎ争いで、上杉景虎に勝利し、越後国主の座につく。親友の直江兼続とともに、上杉の家名を守るため奮戦した。秀吉が天下を取ると会津に国替えとなる。豊臣秀吉の五大老にもなるが、関ケ原の合戦で西軍についた事から100万石の領土を30万に削られ、後さらに削られたが、結果はどうあれその過程で徳川家康を震え上がらせたのは事実。上杉家は江戸時代は米沢藩として存続していく。

上杉景虎(うえすぎ・かげとら)

 実父は北条氏康。本名は北条氏秀。はじめ、武田信玄への人質として甲斐に預けられたが、その後氏康が謙信と同盟すると、今度は謙信の越後へと預けられた。謙信は彼の人質人生を哀れに思い、養子として預かる。その時、同時に謙信の昔の名前である「景虎」を与えられ、「上杉景虎」と名乗るようになる。謙信の死後は景勝との後継ぎ争いに敗れ、薄幸の人生に幕を閉じる。相当な美男子であった事は有名。

上杉景信(うえすぎ・かげのぶ)

 謙信の従兄で、栖吉長尾家に属する。謙信が上杉姓を拝領した際に自らも上杉に改名する。謙信亡き後の御館の乱で、景虎方に味方して景勝軍と戦い、居多浜(こたがはま)の戦いで敗死。これにより栖吉長尾家は滅亡した。

上杉謙信(うえすぎ・けんしん)

 16世紀の越後を支配した戦国大名。武田信玄との川中島の合戦は有名。義を重んじ、曲がった事が嫌いなその性格は、多くの日本人の心を魅了している。戦争の強さは戦国最強と誉れ高く、軍神と恐れられた。織田信長の軍を破り、関東出兵を目前とした1578年3月9日に厠で昏倒し、13日に他界した。戦争の強さばかりが取り上げられがちだが、内政面においても新田開発、商業の発展、街の区画整理、金山銀山の発掘、税の引き下げなどに尽力し政治家としても一流であった。

上杉定実(うえすぎ・さだざね)

 越後守護・上杉房能のいとこ。長尾為景によって担ぎ出され越後の守護となるが、傀儡政権であった。為景の死後、晴景と景虎(謙信)の間で国が2つに分かれ、晴景が敗れると景虎を晴景の養子という形にして越後守護代の座を景虎に譲るよう晴景を説得する。

上杉神社(うえすぎじんじゃ)

 米沢城本丸跡に建つ神社で上杉謙信を祭神とする。明治4年に御堂を仏式から神際と改め、翌5年に謙信と上杉鷹山を祭神とする上杉神社の神号が許可された。明治35年には別格官幣社に昇格、この時祭神を謙信一柱とし、鷹山は摂社にまつられた。例祭日は謙信の命日を新暦に直した4月29日。

上杉輝虎(うえすぎ・てるとら) →上杉謙信

上杉に 逢ふては織田も 名取川 跳ねる謙信 逃るとぶ長(うえすぎに おうてはおだも などりがわ はねるけんしん にぐるとぶなが)

 1577年、手取川で謙信が織田軍を破った後、今日の町で流行った唄。謙信の強さを褒め称え、織田軍の敗走を痛烈に皮肉っている。しかし二度目の対戦はなかった。

上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)

 関東管領。北条氏康に河越夜戦で大敗し急速に力を失い、謙信を頼る。父が謙信の父・為景に殺されているため初めはかなり渋ったらしく、先に佐竹義昭に庇護を求めているが断られている。謙信が助力を承諾すると、謙信に関東管領の位を譲る。その時に、謙信の養父になる。御館の乱で景虎方に味方して、景勝に殺された。

上杉房能(うえすぎ・ふさよし)

 越後守護。もともとは謙信の父・為景の主人に当たるが、為景の謀反によって敗れ、兄・関東管領上杉顕定のもとへと逃亡する。しかしその途中で討たれた。

上杉政虎(うえすぎ・まさとら) →上杉謙信

上杉政虎(うえすぎ・まんとら)

 「まさとら」がなまると「まんとら」となる。

上田銀山(うえだぎんざん)

 越後と会津との境にある謙信の重要収入源となった銀山。

上田衆(うえだしゅう)

 上田長尾氏とその直属の家臣団を指す。長尾政景、上杉景勝などがそれである。直江兼続ももともとはこちらに入るが、直江実綱の娘・お船と結婚したため与坂衆に分類される。そもそも長尾氏の本流は上田長尾氏であり、謙信の春日山長尾氏はその分流である。

上野家成(うえの・いえなり)

 下平修理と領地問題でもめる。これがきっかけで他の領土問題と派閥問題が絡み上杉家の家臣団がまっぷたつになった。これに嫌気が指した謙信は国主を辞める決意をし、出奔してしまう(隠居事件)。この隙に大熊朝秀が武田信玄に通じ、反乱。隠居事件のきっかけを作ってしまった事に責任を感じた家成が、見事これを鎮圧する。

上野原の戦い(うえのはらのたたかい)

 第3回川中島合戦のこと。謙信の隠遁騒動で越後が混乱している隙に乗じ、川中島に進撃してきた武田軍を迎え撃った。小規模な競り合いを繰り返していたが、背後の危険を感じた謙信が撤退しようとしたところを武田軍が追撃。上野原でぶつかり合った。上杉軍優勢に戦いは進んだようだが、決定打がなく両軍戦闘不能になり軍を引いた。「天と地と」の著者・海音寺潮五郎氏はこの戦いを上杉軍の6分勝ちと見ている。

魚住隼人(うおずみはやと)

 謙信の旗本衆の一人。

魚津城(うおつじょう)

 謙信の越中戦略の拠点とも言うべき城。謙信の死後、柴田勝家がこの城を攻撃する。この時、勝家は開城すれば危害を加えないという約束を破りだまし討ちをしたため、景勝の勝家に対する心証は険悪なものとなる。この戦いで、吉江景資、中条景秦、山本寺景長らの武将が城と運命をともにした。

宇佐美定祐(うさみ・さだすけ)

 「北越軍記」の著者。宇佐美定満の子孫である。

宇佐美定満(うさみ・さだみつ)

 謙信の父為景には抵抗したが、謙信には味方して当時謙信に反抗していた長尾政景と戦った。第4回川中島で信玄の弟・信繁を討ったのは宇佐美といわれる。のち、長尾政景と野尻池で舟遊び中に船が沈み二人とも溺死したが、遺体に刀傷があった事から反乱を企んでいた政景を定満が事故と見せかけ、自らの命とひきかえに殺害したと見る向きが強い。

宇佐美定行(うさみ・さだゆき)

 宇佐美定祐が、著書「北越軍記」の中で、祖先の宇佐美定満を脚色美化して作り出した人物。越後流軍法の祖になったといわれる。

宇都宮広綱(うつのみや・ひろつな)

 下野の大名。謙信の小田原攻めに協力する。

厩橋城(うまやばしじょう)

 謙信が関東出征の時の拠点とした上野(こうづけ)の名城。

瓜実剣(うりざねけん)

 1553年、謙信が初の上洛をした時、後奈良天皇から下賜された剣。

【え】

越後(えちご)

 佐渡島を除く現在の新潟県。

越後十七将之肖像(えちごじゅうななしょうのしょうぞう)

 謙信を中央に上杉軍の名将17人を並べた肖像画。江戸時代(1800年代後半ごろ)に玉蘭斎貞秀(ぎょくらんさいさだひで)によって描かれた。信玄の「武田二十四将」に対抗して描かれたものと思われる。

越後上布(えちごじょうふ)

 青苧(あおそ)を原料に作られる、越後特産の上質の布。これを直江津で取り引きする事で、謙信は莫大な利益を挙げていた。

越後二十五将(えちごにじゅうごしょう)

『上杉将士書上』を例に取ると

長尾越前守政景・宇佐美駿河守定満・新津丹波守義門
金津新兵衛尉義舊・北条丹後守高広・色部修理亮長実
本庄美作守慶秀・同弥次郎繁長・甘糟備後守清長
杉原常陸介親憲・斎藤下野守朝信・安田上総介順易
高梨源三郎頼包・柿崎和泉守景家・千坂対馬守清胤
直江大和守実綱・竹俣三河守頼綱・岩井備中守経俊
中条越前守藤資・山本寺勝蔵考長・長尾権四郎景秋
吉江中務丞定仲・志田修理亮義分・大国修理亮頼久
加地安芸守春綱・以上  の名がみられる。

最初、お上に提出した上杉将士書上には、
金津義舊と宇佐美定満はなく二十三人しか、いませんでした。
これは、最初直江山城と宇佐美駿河がありましたが、

直江山城が「自分は幼少だったので、謙信公の陣中での軍功は
でなっかた。景勝公の代になってからの戦功が多いから、
除いてほしい。」とあったので除き、

宇佐美は、景勝公が「除いてほしい」とあったので、
除かれました。

しかし、時が経って二十五将なのに「二十五将」じゃないのは
可笑しいとあり、宇佐美駿河と金津義舊が入れられました。           (情報提供:八兵衛様)

越後の鐘馗(えちごのしょうき)

 謙信の配下、斎藤朝信の二つ名。

越後の虎(えちごのとら)

 上杉謙信の強さに敬意を表してつけた二つ名。(=越後の龍)

越後の龍(えちごのりゅう)

 上杉謙信の強さに敬意を表してつけた二つ名。(=越後の虎)

越山(えつざん)

 上杉軍が関東に出るため三国峠を通る山越えを必要とした。その時の出陣を越山と呼ぶ。

越相同盟(えつそうどうめい)

 三国同盟を破棄した信玄を包囲すべく北条氏康が謙信に申し入れてきた同盟。この成立の条件として氏秀が謙信の許に、柿崎景家の子・晴家が氏康の許にそれぞれ人質として送られた。謙信は一向一揆と戦わなければならなかったため北条の援軍に掛けつける事は出来なかった。氏康の死後、武田と北条の間で同盟が復活した事で、越相同盟は消滅した。

越中(えっちゅう)

 現在の富山県。当時一向一揆が頻繁に発生していた。

江馬輝盛(えま・てるもり)

 謙信に味方した北飛騨の武将。謙信の北陸制圧戦のとき、信長の侵攻に備えた。

【お】

大石綱元(おおいし・つなもと)

 もともと上杉憲政の家臣で、主君の越後亡命に帯同。御館の乱では景勝に味方し、その後の会津移封にも従い、保原城城代となった。

大石芳綱(おおいし・よしつな)

 綱元の兄。越相同盟の締結に尽力した。

大川忠秀(おおかわ・ただひで)

 謙信配下。川中島の合戦で戦死したと上杉年譜に記録されている。

大川長秀(おおかわ・ながひで)

 忠秀の子。本庄繁長の叛乱の時、繁長に呼応した弟達に藤懸城を奪われる。謙信の命で城の奪還を図るが、積雪に阻まれ頼みの大宝寺からの援軍が届かなかったため成功しなかった。繁長が謙信に降伏すると、藤懸城も開城され帰還する事ができた。

大熊朝秀(おおくま・ともひで)

 謙信の配下で、現在の大蔵省のような役割をしていた。上野、下平の土地争いが激化すると、本庄実仍(さねより)が上野方に付き、この大熊が下平方についた。この土地争いは謙信の裁量に委ねられたが、謙信はやや上野寄りの裁定をしたため彼の不満は募り、さらにこののち謙信が隠遁事件を起こすとその隙に武田に内通して反乱を起こす。反乱は戻ってきた謙信の命を受けた上野家成によって鎮圧され、武田領に逃亡しそこに仕官した。天目山の戦いで勝頼と共に死んだとも言われている。

大熊政秀(おおくま・まさひで)

 朝秀の父(だと思う)。謙信が国主になる以前から謙信について謙信を支えてきた。

太田三楽斎道誉(おおたさんらくさいどうよ)→太田資正

太田資正(おおた・すけまさ)

 岩槻城主。扇谷上杉氏の家臣で、主家滅亡後も北条氏に抵抗していた。謙信が関東攻めで進軍してくるとこれに服属。謙信撤退後も一貫して謙信方として北条と戦い関東における上杉の中心勢力となる。しかし、子・氏資の裏切りにより居城を追われ、佐竹氏に身を寄せた。

大塚の対陣(おおつかのたいじん)

 第2回川中島合戦のこと。7月19日に小競り合いがあったが、本格的な衝突はなく、数ヶ月に及ぶにらみ合いとなった。結果的に信玄が先に根負けし、今川義元を仲介役にして上杉軍有利の講和を結び両軍撤退した。信玄としては決着を戦場のみでつける気は無いので、ここは謙信に譲った形だが、一応勝敗をつけるなら謙信の勝ちといえよう。

大槻政通(おおつき・まさみち)

 現在の福島県会津町に居た武将で、芦名盛氏に属していたが、山氏重勝らと共に謙信に通じたため盛氏の攻撃を受け自害した。

小笠原長時(おがさわら・ながとき)

 信玄に追われ越後に亡命。その後京へ赴き足利義輝に仕えるが、義輝が殺害されたため越後に帰還する。謙信病死後は会津の芦名氏を頼りその地で客将として没する。義輝が殺された時、京から越後へ帰還する途中で家臣に殺害されたという説もある。 

岡部元信(おかべ・もとのぶ)

 今川家の武将。桶狭間で主君・義元が討たれ首級を挙げられるが、見事主君の首を取り返す。主家滅亡後は武田家に仕え、徳川との戦いで戦死した。また、川中島の合戦に援軍で駆けつけたともいわれる。

阿亀(おかめ)

 謙信の姉・仙桃院の少女時代の名前。

大国実頼(おぐに・さねより)

 直江兼続の弟。1582年小国重頼の養子となり、小国氏を相続。のち「大国」と姓を改めた。会津移封ののちは南山城主となる。

お船(おせん)

 直江実綱の娘。初め長尾顕吉の子・信綱と結婚するが、信綱が早逝したため、25歳の時3歳年下の樋口与六(のちの直江兼続)と再婚した。兼続の死後は仏門に入り貞心尼と号す。81歳で死去。

御館(おたて)

 謙信が越後に逃げてきた憲政の館として造営した。以後、謙信はここを政庁としても使用した。御館の乱では景勝がいち早く春日山城を占拠したため、出遅れた景虎は御館に立て篭もり対抗するが、翌年景勝の大軍に攻められ落城。

御館の乱(おたてのらん)

 謙信の後を巡っての景勝・景虎による後継者争い。この内乱は3年にも及んだ。敗れた景虎は、実家である北条の小田原へ逃亡しようとして途中鮫ヶ尾城に立ち寄ったが、城主・堀江宗親の謀反に遭い自害した。

織田信長(おだ・のぶなが)

 第1次信長包囲網では、謙信は信長に味方して信玄包囲網を作るが、信玄の死後、信長は室町幕府を滅ぼし、将軍足利義昭を追放する。義昭は毛利家を頼り、本願寺や謙信に第2次信長包囲網を呼びかける。これにより謙信と信長の同盟関係は消え、手取川にて七尾城の援軍に駆けつけた柴田勝家率いる織田軍と謙信率いる上杉軍が激突。この戦いは謙信の圧勝に終わるが、これが結局謙信と信長の最初で最後の戦いとなった。

小田原城(おだわらじょう)

 北条氏康の居城。天下一の名城と名高く、謙信が11万3千(諸説あり)の軍勢で攻めても陥落しなかった。また、武田信玄の攻撃も簡単にはねのけている。氏康の死後、北条氏政、氏直の時、豊臣軍20万によってついに陥落した。豊臣軍には上杉景勝も同行していた。

越水の会(おちみずのかい)

 上杉景勝が、越中の佐々成政挟撃を名目とした秀吉との同盟に承諾した会談。この時秀吉に同行していた石田三成と景勝に同行していた直江兼続とが義兄弟の契りを交わしている。

阿虎(おとら)

 謙信女性説での、謙信の少女時代の名前。女性説では「虎千代」は使わない。また、謙信が「景虎」「政虎」「輝虎」と公式上は改名したものの常に国内での呼び方は「阿虎さん」だったらしい。

鬼小島弥太郎(おにこじま・やたろう)

 謙信が少年時代のころから付き従ってきた忠臣。信玄のもとに使者として行った時、信玄は猛犬をけしかけたが、弥太郎はその犬の口を潰して平然と使者の口上を述べたという。川中島では武田の勇将・山県昌景に「小島は花も実もある武士だ。鬼などと誰が名付けたのだろう。」と言わしめたという。謙信が最も気に入っていた配下である。

苧船(おぶね)

 直江津の北国船の中でも、特に青苧と越後上布を専門に積み輸送していた船をこう呼ぶ。

 

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